もしも、掃除人の娘が令嬢だったら
第一章 陰湿な日常
放課後の教室に、葵の小さなため息が響いた。机の中から取り出したのは、細かく破かれた数学のノート。昨日まで一生懸命書き込んだ公式や解法が、無残にも紙吹雪のように散らばっている。
「あら、葵さん。お掃除のお母様に、ちゃんとお片付けを教わった方がいいんじゃない?」
振り返ると、そこには栗色の巻き髪を優雅になびかせる白石麗華が立っていた。取り巻きの女子たちがクスクスと笑い声を上げる。
「私、何もしてません」葵は震え声で呟いた。
「あら、疑ってなんていないわ。ただ、お掃除って大変でしょう?お母様も毎日我が家でお疲れ様です。あ、そうそう、昨日お母様が割ってしまった花瓶の弁償、ちゃんと給料から差し引かせていただきますから」
麗華の口元に浮かぶ冷たい微笑み。葵は何も言い返せずに、ただ下を向くしかなかった。
夕方、個人塾「英進ゼミナール」の自習室で、葵は壊されたノートを必死に復元していた。隣の机では、男子校の制服を着た高橋涼介が静かに問題集に取り組んでいる。
時折、涼介が困っている同級生に優しく解説する声が聞こえてくる。その温かな声音に、葵の心は甘く痛んだ。
こんな私が、涼介くんと話せるわけない…
涼介の前では、麗華でさえ少し緊張した様子を見せる。それほど彼は特別な存在だった。成績は学年トップ、スポーツも万能、そして何より、誰にでも分け隔てなく接する優しさを持っていた。
「あの、高橋くん」
不意に麗華の声が響いた。葵は手を止めて、そっと様子を窺う。
「この問題、教えていただけませんか?」
「もちろんです、白石さん」
涼介の笑顔に、麗華の頬がほんのり染まった。葵の胸に、嫉妬という名の刃が突き刺さる。
やっぱり、麗華じゃないとダメなんだ…
第二章 ご神木への願い
帰り道、葵は重い足取りで歩いていた。通学路の途中にある古い神社の前で立ち止まる。境内の奥、本殿の裏手に立つ樹齢数百年の大きなご神木が、夕日に照らされて神々しく輝いていた。
葵は誰もいないことを確認すると、ご神木の前に歩み寄った。
「お願いします」
小さく手を合わせて、葵は心の中で強く願った。
もし私が麗華だったら…もし私に彼女の美貌と財力があったら、堂々と涼介くんと話せるのに。こんな惨めな思いをしなくて済むのに…
風がそよぎ、大きな枝葉がざわめく。まるでご神木が葵の願いを聞き届けたかのように。
「私も麗華みたいになりたい…」
呟いた瞬間、不思議な眩暈を感じた。世界がぐらりと揺れ、意識が遠のいていく。
第三章 目覚めた時に
目を覚ますと、見慣れない天蓋付きのベッドに寝ていた。
「え…?」
葵は慌てて身を起こす。そこは自分の狭い部屋ではなく、まるで宮殿のような豪華な寝室だった。シャンデリアが煌めき、アンティークの家具が並んでいる。
震える手で顔を触ると、感触が違う。慌てて鏡台に駆け寄り、鏡を覗き込んだ瞬間——
「きゃあああああ!」
鏡に映っていたのは、栗色の巻き髪に翡翠色の瞳を持つ美少女。間違いなく、白石麗華の顔だった。
嘘…嘘でしょ…?
慌てて自分の体を確認すると、華奢で女性らしいラインを描く麗華の体になっている。夢なのか現実なのか分からない混乱の中、部屋のドアがノックされた。
「麗華お嬢様、お目覚めでしょうか」
聞き慣れた声に、葵の心臓が跳ね上がる。それは自分の母親の声だった。
一方、その頃。
薄暗いアパートの一室で、「麗華」は困惑していた。見慣れない狭い部屋、安物の家具、そして鏡に映る見知らぬ少女の顔。
「これは…夢?」
麗華の記憶を持つその少女——本当の麗華は、自分が葵の体になっていることに気づいていた。昨夜、なぜか強烈な眩暈に襲われて倒れ、そして目覚めるとこの有様だった。
「なぜ私が…こんな…」
麗華は震える手で粗末な服を見下ろした。今まで着たことのない安物の生地。狭い部屋に漂う生活臭。そして何より、鏡に映る平凡な顔立ちが、彼女のプライドを深く傷つけていた。
第四章 入れ替わりの日常
翌日、学校。
葵(麗華の体)は、周囲の視線を浴びながら教室に入った。いつもなら畏怖と嫉妬の視線だったが、今日は何か違う。
「おはよう、麗華」
クラスメイトたちが親しげに声をかけてくる。葵は戸惑いながらも、ぎこちなく挨拶を返した。
一方、麗華(葵の体)は、いつもと違う周囲の反応に困惑していた。
「おはよう、葵ちゃん」
優しい声をかけてくれるクラスメイト。それは今まで麗華が威圧していた子たちだった。彼女たちの純粋な優しさに、麗華の心は複雑に揺れた。
放課後の塾で、葵(麗華の体)は涼介の隣の席に座った。いつもなら遠くから眺めることしかできなかった憧れの人が、手の届く距離にいる。
「白石さん、今日は何だか雰囲気が違いますね」
涼介の言葉に、葵の心臓が跳ね上がった。
「え、そ、そうですか?」
「はい。なんというか…優しい感じがします」
涼介の微笑みに、葵は頬を染めた。麗華の美しい顔で見つめられて、涼介も少し照れているように見える。
これが…麗華だったら感じられる世界…
しかし同時に、葵の心には罪悪感が芽生えていた。これは本当の自分じゃない。偽りの姿で涼介と話している。
その頃、麗華(葵の体)は、質素な夕食を前に呆然としていた。
「今日はお疲れさま、葵」
疲れ切った表情の葵の母親が、温かいスープを差し出してくれる。麗華は今まで、この女性を単なる使用人としか見ていなかった。しかし、娘を思う優しい眼差しを向けられて、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「お母さん、白石家での仕事…大変?」
「えっ?」母親は驚いた顔を見せた。「葵がそんなこと聞くなんて珍しいわね。大丈夫よ、麗華お嬢様はたまにキツイことを言われるけれど、お給料はちゃんともらえているから」
麗華の胸に、鋭い痛みが走った。自分が葵の母親にどんな扱いをしていたか、改めて思い知らされた。
第五章 それぞれの孤独
数日が過ぎ、お互いの生活に少しずつ慣れてきた二人。
葵(麗華の体)は、豪華な屋敷で一人夕食を取りながら、深い孤独を感じていた。両親は仕事で海外出張中、家には使用人しかいない。広すぎる部屋に響くのは、自分一人の足音だけ。
麗華は、いつもこんなに寂しい思いをしていたの…?
そして、麗華の部屋で見つけた日記を読んで、葵は愕然とした。そこには、涼介への想いが切々と綴られていたのだ。
『涼介くんは、きっと私のことを高慢な女だと思っている。でも本当は、ただ話しかける勇気がないだけ。葵さんがうらやましい。彼女は素直で、自然体で人と接することができる。私にはそれができない』
葵の手が震えた。麗華は、自分のことを羨ましく思っていたのだろうか?
一方、麗華(葵の体)は、母親の働く姿を見て、深い自己嫌悪に陥っていた。狭いアパートの一室で、母親は内職の手芸をしている。白石家での給料だけでは足りず、夜遅くまで働いている姿を見て、麗華は自分がいかに恵まれていたかを痛感した。
「お母さん、休んでよ。体を壊すよ」
「あら、葵ったら優しいのね。でも大丈夫。あなたが大学に行けるように、しっかり貯金しないと」
母親の言葉に、麗華の目に涙が浮かんだ。この人は、自分の娘の未来のために必死に働いている。それなのに自分は…。
私は、こんなに素晴らしい人を見下していた…
第六章 真実の告白
一週間後の放課後、二人は偶然神社で出会った。
葵(麗華の体)と麗華(葵の体)は、ご神木の前で向かい合った。
「やっぱり、あなたも…」葵が口を開いた。
「ええ、体が入れ替わってる」麗華が頷く。「最初は夢かと思ったけれど、現実ね」
二人の間に沈黙が流れた。
「ねえ、葵」麗華が口を開いた。「私…ごめんなさい」
「え?」
「今まであなたにしてきたこと。あなたのお母様に対する態度。全部…間違っていた」
麗華の目に涙が浮かんでいた。
「あなたの生活を体験して、初めて分かったの。あなたがどれだけ辛い思いをしていたか。そして、あなたのお母様がどれだけ素晴らしい人なのかも」
葵も目に涙を浮かべながら言った。
「私こそ、ごめんなさい。あなたのことを憎んでいたけれど、あなたも一人で寂しい思いをしていたのね。涼介くんのこと…本当に大切に思っているのね」
「あなたの日記、読んでしまった」葵は顔を赤くした。「涼介くんへの想い…とても純粋で美しくて。私、勘違いしていた。あなたは決して高慢なだけの人じゃなかった」
麗華は微笑んだ。
「私もあなたの真っ直ぐさを知ったわ。涼介くんがあなたに興味を持つのも分かる気がする」
「え?」
「涼介くん、最近『白石さんが変わった』って言ってるの。『前より自然で話しやすくなった』って。それはあなたの人柄が滲み出てるからよ」
第七章 新しい関係
その夜、二人は再びご神木の前で手を合わせた。
「元に戻りたい?」麗華が聞いた。
葵は少し考えてから答えた。
「戻りたい。でも…この経験を無駄にしたくない」
「私も同じ気持ち」麗華が頷いた。「戻ったら、きちんと謝りたい。あなたにも、あなたのお母様にも」
「そして、友達になりましょう」葵が微笑んだ。「本当の友達に」
二人が手を合わせた瞬間、再び不思議な眩暈が襲った。
翌朝、葵は自分の狭い部屋のベッドで目覚めた。鏡を見ると、いつもの自分の顔が映っている。
同じ頃、麗華も自分の豪華な寝室で目覚めていた。
学校で再会した二人は、お互いの目を見つめて微笑みあった。
「おはよう、麗華」
「おはよう、葵」
周りの生徒たちは驚いた。あの白石麗華が、葵と普通に会話をしている。
放課後、麗華は母親に頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。今まで失礼な態度を取っていて」
葵の母親は驚いたが、優しく微笑んだ。
「麗華お嬢様、お気になさらないでください」
「いえ、これからは変わります。それと…」麗華は封筒を差し出した。「今までの失礼のお詫びです。少ないですが、受け取ってください」
第八章 それぞれの恋心
塾でのこと。葵と麗華は、涼介を挟んで座っていた。
「高橋くん」麗華が声をかけた。「紹介したい人がいるの。葵さん、とても素敵な人なのよ」
涼介は葵を見て微笑んだ。
「前から気になっていました。葵さん、今度一緒に勉強しませんか?」
葵の顔が真っ赤になった。麗華は満足そうに微笑む。
「あの、白石さんも一緒に…」葵が慌てて言った。
「私は遠慮するわ」麗華が首を振った。「でも、今度三人で映画でも見に行きましょう?涼介くん、どうかしら?」
「それはいいですね」涼介が答えた。
麗華の胸には、ほのかな痛みがあった。涼介への想いは消えない。でも、葵の幸せを願う気持ちの方が強かった。
帰り道、葵が麗華に言った。
「麗華、ありがとう。でも…あなたも涼介くんのこと…」
「好きよ、今でも」麗華が素直に答えた。「でも、あなたの方が涼介くんにふさわしい。それに…」
麗華は空を見上げた。
「私には、もっと大切なことが見つかったの。お母様やお父様との関係を修復すること。そして、本当の友達を作ること。あなたみたいな」
葵の目に涙が浮かんだ。
「麗華…」
「泣かないで。私たち、友達でしょう?」
二人は笑いあった。
エピローグ 新しい未来
それから半年後。
葵と涼介は恋人同士になっていた。麗華は心から二人を祝福し、今では葵の親友として、恋愛相談に乗ったりしている。
麗華自身は、海外出張から戻った両親との関係を修復し、以前より温かい家庭を築いていた。そして、ボランティア活動に参加するようになり、そこで出会った心優しい青年と交際を始めていた。
ある日の放課後、三人は神社を訪れた。
「あのご神木のおかげかな」葵がつぶやいた。
「そうかもしれないわね」麗華が微笑む。「でも本当は、私たちが変わる勇気を持てたからじゃない?」
涼介が二人を見て言った。
「君たちの友情、とても素敵だと思う。最初はライバルだったって信じられないよ」
「秘密よ」葵と麗華が同時に言って、三人で笑いあった。
夕日に照らされたご神木が、まるで三人を見守るように優しく枝葉を揺らしていた。
時には、大きな変化が必要なこともある。でも一番大切なのは、お互いを理解し、受け入れること。そして、本当の幸せは、誰かを蹴落とすことではなく、みんなで幸せになることなのだと、三人は心から理解していた。