指が招く怪異〜黒い指の呪い〜
第一章 帰省
八月の蒸し暑い午後、佐々木健太は電車の窓から見慣れた田園風景を眺めていた。大学三年生の夏休み、本来なら友人たちとの旅行やバイトに明け暮れているはずだったが、今年は違う。祖母の一周忌のために、三年ぶりに実家へ帰省することになったのだ。
「健太、お疲れさま。大きくなって…」
駅で迎えてくれた母の顔には、久しぶりの再会への喜びと、祖母を亡くした悲しみがまだ残っていた。実家に着くと、父は仏壇の前で手を合わせていた。
「おばあちゃん、健太が帰ってきたよ」
母のつぶやきに、健太は胸が締め付けられる思いがした。祖母は健太のことをとても可愛がってくれていたのに、最期に顔を見せることができなかった。後悔の念が心の奥底から湧き上がってくる。
「明日から遺品整理を始めるから、手伝ってもらえるかな」
父の言葉に、健太は素直に頷いた。せめてそれくらいは、祖母への供養になるだろう。
第二章 発見
翌日の朝から、家族三人で遺品整理が始まった。祖母の部屋には、生前愛用していた着物や本、写真などが整然と並んでいる。一つ一つの品物に思い出が詰まっていて、作業は思ったより時間がかかった。
「物置の方も片付けないといけないわね」
母の提案で、健太は一人で物置の整理を任された。薄暗い物置に足を踏み入れると、古い家具や季節用品が雑然と積み重なっている。埃の匂いが鼻を突き、健太は思わず咳き込んだ。
奥の方から少しずつ整理していくと、棚の最奥部で妙な物を発見した。他の物とは明らかに異質な、黒く古びた木箱だった。表面には細かい彫刻が施されているが、長年の埃でその詳細は見えない。
「こんなの、あったっけ?」
子供の頃、この物置は健太にとって探検場所の一つだったが、この箱の記憶はない。重厚な作りで、小さな真鍮の鍵がかかっている。なぜか心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、健太は箱を両手で持ち上げた。
思ったより軽い。中に何かが入っているようだが、振っても音はしない。
好奇心に駆られた健太は、鍵を回してみた。意外にもすんなりと開く。きしんだ音とともに蓋が上がると、中には小さな布包みが一つだけ入っていた。
第三章 黒い指
布は古い絹のようで、丁寧に結ばれている。健太は恐る恐るそれを取り出し、結び目をほどいた。
布が開いた瞬間、健太の血の気が引いた。
そこにあったのは、人間の指だった。
黒く干からび、ミイラのようにカラカラに乾燥している。しかし、爪の形や関節の位置など、それが確かに人の指であることを示す特徴は全て残っていた。薬指らしく、付け根には結婚指輪をはめていた跡のような痕がかすかに見える。
「うわっ!」
健太は思わず布包みを床に落としそうになったが、何とか踏みとどまった。心臓が激しく打ち、冷や汗が背中を流れる。
なぜこんなものが祖母の家にあるのだろう。祖父の遺品だろうか。何かの宗教的な儀式に使われていたものなのか。それとも…
様々な想像が頭を駆け巡るが、どれも恐ろしいものばかりだった。健太は慌てて指を布で包み直し、木箱に戻した。蓋を閉め、鍵をかけると、急いで元の場所に押し戻した。
「健太、どう?進んでる?」
突然母の声が物置に響き、健太は飛び上がりそうになった。
「あ、うん。だいたい整理できたよ」
「お疲れさま。お昼にしましょう」
母が去った後、健太は木箱をもう一度見つめた。今でも、あの黒い指の感触が目に焼き付いている。何か恐ろしいものに触れてしまった気がして、早く家に帰りたくなった。
第四章 始まり
その夜から、健太の身に奇妙なことが起こり始めた。
まず気づいたのは音だった。夜中の二時頃、壁の向こうから「トン、トン、トン」という規則正しい音が聞こえてくる。まるで誰かが扉をノックしているような音だ。
最初は隣の部屋で父が何かしているのかと思ったが、廊下に出てみても誰もいない。音の方向を辿ると、祖母の部屋の壁から聞こえてくるようだった。
「気のせいだろう」
そう自分に言い聞かせて布団に戻ったが、音は朝まで続いた。
翌日は、電化製品の異常だった。テレビが勝手についたり消えたりを繰り返し、エアコンも設定温度が勝手に変わる。照明も明るくなったり暗くなったりと、まるで生き物のように動き回った。
「電気系統が古いのかしら」
母は心配そうに呟いたが、健太には確信があった。これは昨日あの指を見つけてからの出来事だ。偶然ではない。
第五章 夢の中の影
三日目の夜、健太は奇妙な夢を見た。
薄暗い部屋で、一人の人影がこちらを見つめている。顔ははっきりしないが、その人は右手を掲げていた。そして、その手には薬指がない。四本の指だけが、健太を指さしている。
『返せ』
声は聞こえないが、その人影の唇がそう動いているのがわかった。
『私の指を返せ』
人影がゆっくりと近づいてくる。健太は逃げようとしたが、足が動かない。どんどん迫ってくる人影。その顔がはっきりと見えそうになった時、健太は飛び起きた。
全身冷や汗でびっしょりだった。時計を見ると午前三時。外はまだ真っ暗だ。
そしてまた、あの音が始まった。
「トン、トン、トン」
今度ははっきりと聞こえる。祖母の部屋の壁からだ。健太は布団を被って音をしゃがり込んだが、音は止まない。それどころか、だんだん激しくなっているようだった。
第六章 鍵が開かない
翌朝、耐えきれなくなった健太は物置に向かった。あの木箱をもう一度確認し、中の指を…どこか遠くに捨ててしまおう。そうすれば、この異常な出来事も終わるはずだ。
物置に入り、木箱を取り出した。しかし、鍵穴に鍵を差し込んで回そうとしても、びくともしない。
「おかしい…昨日は開いたのに」
何度も試したが、鍵は回らない。まるで錆び付いてしまったかのように、完全に固まっている。力を入れて回そうとすると、鍵の方が折れそうになった。
「なんで開かないんだ…」
健太は必死に鍵を回そうとしたが、徒労に終わった。木箱は頑なに秘密を守ろうとしているかのようだった。
諦めて木箱を元の場所に戻したとき、健太は気がついた。箱の表面の彫刻が、昨日より鮮明に見える。埃を拭ったわけでもないのに、文様がはっきりと浮かび上がっている。
よく見ると、それは人の手を象った彫刻だった。そして、その手には薬指がない。
第七章 真実への接近
その日の夕食時、健太は思い切って両親に尋ねてみた。
「お爺ちゃんって、何か変わった趣味とか、宗教的なことやってた?」
父と母は顔を見合わせた。
「なんで急にそんなことを?」
「いや、物置を片付けてるとき、変わった物があったから…」
父は少し考えてから口を開いた。
「お前のお爺ちゃんは、若い頃に戦争に行ってな。帰ってきてから、たまに変なことを言ってたことはある」
「どんなこと?」
「誰かを探してる、とか、返さなくちゃいけないものがある、とか…でも、お爺ちゃんが亡くなってからもう十年になるし、詳しいことはよくわからない」
母が付け加えた。
「お爺ちゃんは戦争の話はあまりしたがらなかったの。でも、時々うなされてたわね。『ごめん』とか『許して』とか言いながら…」
健太の背筋に悪寒が走った。あの指は、祖父の戦争体験と関係があるのだろうか。
第八章 憑依
その夜、事態は一気に悪化した。
健太は再び同じ夢を見た。しかし今度は、人影の顔がはっきりと見えた。三十代くらいの男性で、軍服を着ている。右手の薬指がない。そして、その顔は激しい怒りに歪んでいた。
『なぜ返さない』
『私の指を返せ』
『私の家族の元に返せ』
声が直接脳内に響く。健太は夢の中で叫んだが、声は出ない。
そのとき、男性の姿が急に近づいてきた。そして、健太の体に重なるように入り込んできた。
健太は目を覚ました。だが、体が自分のものではないような感覚に襲われる。右手を見ると、薬指がない。
「あああああ!」
健太は叫んだが、すぐに我に返る。薬指はちゃんとある。しかし、その感覚は夢ではなかった。誰かが自分の体の中にいる。
第九章 祖父の秘密
翌日、健太は一人で市立図書館に向かった。戦争に関する資料を調べるためだ。祖父の部隊や戦地について調べれば、何かわかるかもしれない。
司書の助けを借りて戦争資料を調べていると、祖父の名前を発見した。昭和十八年、フィリピン戦線に従軍したという記録がある。
さらに調べを進めると、恐ろしい記録を見つけた。祖父の部隊で起こった事件の報告書だった。
「昭和十九年三月、現地住民との衝突により、民間人数名が死亡。遺体の処理について…」
健太の手が震えた。報告書には、戦死者の遺品の処理について詳細に書かれている。その中に、「指輪等の貴金属類は本国へ送付」という一文があった。
そして、その下に祖父の名前があった。遺品整理の責任者として。
第十章 真相
家に帰った健太は、もう一度物置に向かった。今度は、木箱の鍵が開いた。まるで真実を知った健太を待っていたかのように。
中の指を改めて見ると、結婚指輪の跡がはっきりと見える。これは戦争で亡くなった現地の人の指だったのだ。祖父は遺品を遺族に返すはずだったが、何らかの理由でそれができなかった。そして、罪悪感から一人でその指を保管し続けていたのだろう。
その夜、健太は再び夢を見た。しかし今度は、男性の表情が違った。怒りではなく、悲しみに満ちている。
『家族の元に帰りたい』
『妻と子供が待っている』
『お願いだ、返してくれ』
健太は夢の中で頷いた。
『わかりました。必ず返します』
男性の表情が和らいだ。そして、ゆっくりと姿を消していった。
終章 解放
健太は両親に事情を説明した。最初は信じてもらえなかったが、連日の異常現象を目の当たりにして、両親も真剣に聞いてくれた。
「お爺ちゃんも、きっと苦しんでたのね…」
母は涙を流しながら言った。
健太は指について詳しく調べた。結婚指輪の跡から、既婚者であることがわかる。フィリピン戦線で亡くなった現地住民の可能性が高い。
家族で話し合った結果、その指をフィリピンに送り返すことにした。日本とフィリピンの戦争遺品返還団体に連絡を取り、正式な手続きを踏んで返還することができた。
指をフィリピンに送った日の夜、健太は最後の夢を見た。
軍服の男性が、フィリピンの美しい海岸に立っている。傍には若い女性と小さな子供がいる。男性は健太に向かって深く頭を下げ、そして家族と共に光の中に消えていった。
その後、健太の周りで奇妙な出来事は一切起こらなくなった。壁から音も聞こえない。電化製品も正常に動く。祖母の家に平穏が戻った。
健太は祖父の気持ちがわかる気がした。戦争という異常な状況の中で、やむを得ずしてしまったこと。それでも、祖父なりに罪悪感を感じ、ずっと苦しんでいたのだろう。
「お爺ちゃん、これで良かったんですよね」
仏壇に向かって手を合わせながら、健太は心の中でつぶやいた。
外では、久しぶりに鳥のさえずりが聞こえている。すべてが終わった。平和が戻った。
健太は大学に戻る準備を始めた。この夏の体験は、きっと一生忘れることはないだろう。そして、戦争の恐ろしさと、人の心の複雑さを深く理解することができた。
黒い指の呪いは、愛する人を思う気持ちの現れだったのかもしれない。遠い異国の地で、家族の元に帰りたいと願い続けた男性の魂。それは呪いではなく、切ない祈りだったのだ。
健太は窓から見える青い空を見上げた。どこか遠くで、一つの家族が再会を果たしているような気がした。