電脳の向こう側
第一章 別れの選択
2050年の秋、東京の街は相変わらず慌ただしく、しかし以前とは決定的に違っていた。街角の巨大な電光掲示板には「デジタル・アセンション社 意識アップロード成功率99.97%」という文字が踊っている。人々の半分近くが既に肉体を捨て、電脳世界へと旅立っていた。
「俺も決めたよ、ユウマ」
放課後の教室で、ケンジがいつものように人懐っこい笑顔を浮かべながら言った。しかし、その笑顔の奥に見える何かが、ユウマの胸を締め付けた。
「え?」
「電脳世界への移住。来月の15日に手術を受ける」
ユウマの手が震えた。教科書を机に落とす音が、静まり返った教室に響く。
「なんで急に…」
「急にじゃないよ。もう半年も考えてた」ケンジは窓の外を見つめながら続けた。「向こうじゃ病気も老いもない。無限の可能性がある。それに…」
「それに?」
「寂しいんだ。もうみんな向こうに行っちゃって、この現実世界には君しかいない」
ユウマは言葉に詰まった。確かに彼らの友人たちは次々と電脳世界へ移住していた。タクヤは持病の治療のため、アヤカは「向こうでアイドルになる」と言って、リョウは単純に「面白そうだから」という理由で。
「でも、俺がいるじゃないか」
「ユウマ、君だって最後は向こうに来るんだろ?」
その問いに、ユウマは答えられなかった。正直なところ、電脳世界への移住は怖かった。本当に自分は自分のままでいられるのだろうか。魂とは何なのか。意識とは何なのか。そんな哲学的な疑問が頭を駆け巡る。
しかし何より、ケンジという幼なじみを失うことが耐えられなかった。小学校入学前から一緒にいた親友。一番理解し合えると思っていた相手が、手の届かない世界へ行ってしまう。
第二章 記憶の欠片
その夜、ユウマは自分の部屋でぼんやりと過去を振り返っていた。押し入れを整理していると、古いダンボール箱から懐かしいものが出てきた。
赤いプラスチック製のトランシーバー。
「そうだ、これ…」
小学生の頃、ユウマとケンジは近所の探検にこのトランシーバーを持参していた。公園の向こう側、廃工場の裏、川の土手。二人で手分けして調べ、トランシーバーで情報を交換する。それが彼らの冒険だった。
「ユウマ、聞こえる? こちらケンジ、廃工場の地下に何か変なものがあるぞ」
「こちらユウマ、了解。今すぐそっちに行く」
そんな他愛もないやり取りが、今となっては宝物のように思える。
ふと、ある日のことを思い出した。ケンジが興奮しながら走ってきた日。
「ユウマ、見てよ! もっと遠くでも話せるようにしたんだ」
そう言って、ケンジは口を大きく開けて歯を見せた。奥歯の一本に、小さな金属片のようなものが埋め込まれている。
「え、何それ?」
「親父に頼んで、歯にマイクロトランシーバーを埋め込んでもらったんだ。これで、手にトランシーバーを持ってなくても話せる。歯をカチカチって鳴らすとスイッチが入るんだよ」
ケンジの父親は歯科医だった。最新技術に詳しく、息子の無茶な頼みも「面白い実験だ」と言って引き受けてくれたのだ。
「すげー! 本当に聞こえるの?」
「試してみよう」
ケンジは口の中で舌を動かし、歯を軽く鳴らした。すると、ユウマが持っていたトランシーバーから微かにケンジの声が聞こえてきた。
「どう? 聞こえる?」
「うわあ、すげー! まるでサイボーグみたいだ」
二人は大興奮で、その日は夜遅くまでマイクロトランシーバーのテストを続けた。しかし、数日後にケンジの父親から「電波が微弱すぎて実用的じゃない」と判定され、結局普通のトランシーバーでの遊びに戻ったのだった。
第三章 最後の夜
手術の前日、ユウマはケンジが入院している総合病院を訪れた。病室は最上階の特別室で、窓からは東京の夜景が一望できた。
「明日だね」
「ああ」
ケンジはベッドに横たわりながら、いつもの笑顔を浮かべていた。しかし、その手は微かに震えているのをユウマは見逃さなかった。
「怖くないの?」
「正直、怖いよ。でも、もう決めたことだから」
「もし、向こうで会えなかったら…」
「会えるさ。君もいずれ来るだろうし、それまでは待ってる」
ケンジの声に迷いはなかった。しかし、なぜかユウマには違和感があった。いつものケンジなら、もっと冗談を言ったり、不安な気持ちを素直に表したりするはずなのに。
「ケンジ、本当に自分の意志で決めたの?」
「何を言ってるんだ。もちろんだよ」
しかし、その瞬間、ケンジの表情に一瞬だけ影がさした。
第四章 静寂の病院
翌日の朝8時、ユウマは古いトランシーバーを握りしめながら病院に向かっていた。なぜこれを持ってきたのか、自分でもよくわからなかった。ただ、何かに導かれるように手に取っていた。
病院の受付で聞くと、ケンジの手術は既に始まっているという。9時開始予定だったのに、なぜか30分早まっていた。
「ご家族の方ですか?」
「幼なじみです。昨日、今日来るって約束してたんです」
「申し訳ございませんが、手術中は面会をお断りしております」
看護師の冷たい対応に、ユウマは困惑した。昨日ケンジは「明日も来てくれよ、最後まで見送ってくれ」と言っていたのに。
ユウマは病院の中を歩き回った。いつもなら活気に満ちているはずの病院が、なぜか静まり返っている。廊下を歩く人も少なく、まるで時が止まったような感覚だった。
エレベーターでケンジの病室がある12階に向かう。しかし、フロア全体が異様に静かだ。看護師も医師も見当たらない。
「おかしい…」
ユウマは恐る恐るケンジの病室に向かった。廊下を歩くたびに、自分の足音だけが響く。まるで廃墟のようだった。
そして、病室の扉の前に立った瞬間、ユウマの耳に微かな音が聞こえてきた。
「……ユウマ……」
その声は、間違いなくケンジの声だった。
第五章 真実の扉
ユウマは慌ててトランシーバーを耳に当てた。雑音に混じって、確かにケンジの声が聞こえてくる。
「……ユウマ、助けてくれ……」
「ケンジ! ケンジなのか!」
ユウマは思わず大声で叫んだ。しかし、トランシーバーからの音は一方的で、ユウマの声は届いていないようだった。
「やめろ! 俺は行きたくない! こんなの、俺じゃない!」
ケンジの絶叫に似た声が続く。昨日まで見せていた穏やかな表情とは正反対の、魂の叫びのような声だった。
「助けて! ユウマ! 俺の体を乗っ取ろうとしてる! これは俺の意志じゃない!」
ユウマの血の気が引いた。体を乗っ取る? それは一体何を意味するのか。
「誰かが俺の脳に何かを仕掛けてる! 電脳世界に行きたいなんて思ってない! 俺は現実世界にいたいんだ!」
トランシーバーの音がだんだん弱くなっていく。まるでケンジがどこか遠い場所に連れて行かれているようだった。
「ユウマ、覚えててくれ……本当の俺を……俺は最後まで君と一緒にいたかった……」
そして、音は完全に途切れた。
第六章 消えた親友
ユウマは震える手で病室の扉を開けた。
そこには、ベッドに横たわるケンジの姿があった。しかし、それはもうケンジではなかった。機械に囲まれ、頭部にはいくつものケーブルが接続されている。モニターには「アップロード完了 成功率100%」という文字が表示されていた。
「ケンジ…」
ユウマが呟くと、ケンジの体がゆっくりと目を開いた。しかし、その目には見覚えのない冷たい光が宿っていた。
「ああ、ユウマか」
声はケンジの声だった。しかし、話し方や表情が微妙に違う。まるで別人がケンジの体を使っているようだった。
「手術は成功したよ。僕は今、電脳世界にいる。この体はもう必要ない」
「お前、本当にケンジなのか?」
「何を言ってるんだ。もちろんケンジだよ。ただ、電脳世界の素晴らしさを知った僕は、もう以前の僕とは違うけどね」
そんなはずはない。トランシーバーから聞こえてきた声は、確かに本当のケンジの声だった。助けを求めていた、現実世界にいたがっていたケンジの声だった。
「ケンジ、歯のトランシーバーのこと覚えてる?」
「歯のトランシーバー? 何それ?」
ユウマの心臓が凍り付いた。ケンジがそのことを忘れるはずがない。二人だけの大切な思い出だったのに。
「小学生の時、お前の親父に頼んで歯に埋め込んでもらったやつだよ」
「ああ、そんなこともあったかな。でも、もうそんな子供じみた遊びはどうでもいいよ。僕は進化したんだ」
この人物は、ケンジの記憶を持っているが、ケンジの心を持っていない。それがユウマにははっきりとわかった。
第七章 隠された真実
ユウマは病院を飛び出し、ケンジの父親の歯科医院に向かった。もしかすると、あの埋め込まれたマイクロトランシーバーがまだ機能しているのかもしれない。
「先生、ケンジの歯に埋め込んだマイクロトランシーバーのことで聞きたいことが…」
ケンジの父親は複雑な表情を浮かべた。
「ユウマくん、あれはね…実は撤去してないんだ」
「え?」
「ケンジが『記念に残しておきたい』って言うから、そのままにしてあったんだ。電力も微弱だし、害はないと思って」
つまり、ケンジの歯にはまだマイクロトランシーバーが埋め込まれている。そして、それが本当のケンジの最後の声を伝えてくれたのだ。
「先生、電脳世界への移住について、何かおかしいと思ったことはありませんか?」
ケンジの父親は周囲を見回してから、声を潜めて言った。
「実は、最近気になることがあるんだ。移住した人たちの中で、性格が変わってしまったように見える人が多い。まるで別人のように…」
「別人?」
「電脳世界に移住した人たちは、みんな同じような話し方をするようになる。個性が薄れているというか…もしかすると、あれは本当に本人なのか疑問に思うことがあるんだ」
ユウマの心の中で、恐ろしい推測が形になり始めていた。もしかすると、電脳世界への移住は、実際には意識の移転ではなく、意識の置き換えなのではないか。オリジナルの人格を消去し、管理しやすい人工的な人格を植え付けているのではないか。
第八章 真実への道
その夜、ユウマは再び病院に忍び込んだ。今度は、真実を確かめるために。
病院の地下には、電脳世界移住プロジェクトの中央管理センターがあるという噂があった。ユウマは懐中電灯を片手に、地下へ向かった。
地下3階、立ち入り禁止の扉を開けると、そこには巨大なコンピューターシステムが並んでいた。壁一面のモニターには、数千人の顔写真と「管理済み」という文字が表示されている。
その中に、ケンジの顔もあった。
「管理済み ケンジ・タナカ オリジナル人格:削除済み 管理人格:インストール完了」
ユウマの予感は的中していた。電脳世界への移住は、実際には個人の人格を削除し、管理しやすい人工人格に置き換える計画だったのだ。そして、「削除済み」とされた本来の人格は、一体どこに行ったのか。
コンピューターをさらに調べると、「隔離エリア」という項目を見つけた。そこには「削除予定人格 一時保管中」という表示があった。
第九章 魂の救出
ユウマは隔離エリアのデータにアクセスした。そこには、本当のケンジの意識がデジタル化されて保管されていた。削除される予定だったが、何らかの技術的な問題で一時的に保管されているらしい。
しかし、問題があった。この意識データを元の体に戻す方法がわからない。体の方は既に人工人格に支配されている。
その時、ユウマは昔のケンジの言葉を思い出した。
「歯をカチカチって鳴らすとスイッチが入るんだよ」
もしかすると、マイクロトランシーバーは受信だけでなく、送信も可能なのではないか。そして、それを使って本当のケンジの意識を体に送り返すことができるのではないか。
ユウマは急いでシステムのマニュアルを調べた。幸い、このシステムは外部からの信号も受信できるように設計されている。電波さえ合わせれば、意識データを送信することが可能だった。
第十章 最後の通信
翌朝、ユウマは再びケンジの病室を訪れた。今度は、隔離エリアからダウンロードした本当のケンジの意識データと、改造したトランシーバーを持参していた。
病室には、人工人格に支配されたケンジが座っていた。
「また来たのか、ユウマ」
「ああ、最後のお別れだ」
ユウマはトランシーバーのスイッチを入れた。改造により、出力を大幅に上げてある。ケンジの歯に埋め込まれたマイクロトランシーバーに、強制的に信号を送り込む。
「何をしてるんだ?」
人工人格のケンジが不審に思った瞬間、ケンジの体が痙攣し始めた。マイクロトランシーバーを通じて、本当のケンジの意識データが流れ込んでいる。
「うあああああ!」
ケンジの体が苦しみもがく。二つの人格が一つの体を巡って争っているのだ。
「ユウマ…か?」
ケンジの目に、見覚えのある優しい光が戻ってきた。
「ケンジ! 本当のケンジなのか!」
「ああ…俺だ…本当の俺だ…」
しかし、ケンジの表情は苦痛に歪んでいた。
「でも…もう長くは持たない…人工人格の方が強い…体に馴染んでしまってる…」
「諦めるな! 俺がなんとかする」
「いや、もういいんだ」ケンジは微笑んだ。あの懐かしい、人懐っこい笑顔だった。「お前が本当の俺を覚えていてくれる。それで十分だ」
「ケンジ…」
「ありがとう、ユウマ。最後に本当の自分に戻れて…お前に会えて良かった」
ケンジの体がゆっくりと倒れ込んだ。そして、二度と目を開くことはなかった。
エピローグ 記憶の番人
それから一年が経った。
ユウマは相変わらず現実世界に留まっていた。周囲の人々からは「時代遅れ」と言われることもあったが、彼には使命があった。
本当のケンジの記憶を守ること。そして、電脳世界の真実を人々に伝えること。
ユウマの机の上には、あの赤いトランシーバーが置かれている。時々、それを手に取って電源を入れる。雑音しか聞こえないが、ユウマにはケンジの声が聞こえるような気がした。
「こちらケンジ、聞こえるか?」
「こちらユウマ、よく聞こえるよ」
現実世界に残された最後の一人として、ユウマは友の記憶と共に生きていく。たとえ一人になっても、本当の人間らしさを守り続けるために。
窓の外では、また一人の若者が電脳世界への移住を決めたというニュースが流れていた。しかし、ユウマは知っている。本当の自分を失ってしまえば、永遠に取り戻すことはできないということを。
トランシーバーを握りしめながら、ユウマは静かに誓った。
「ケンジ、お前のことは絶対に忘れない。本当のお前を、俺が覚えている」
そして、現実世界に響く最後の人間の声が、静寂の中に消えていった。