小さいおじさんと秘密の庭
第一章 出会い
夏休みの始まりから一週間が経った頃、佐々木健太は裏庭の物置を片付けていた。母親に頼まれた仕事だったが、普段は見向きもしない古い道具箱や、ほこりまみれの本の中から、思いがけない宝物を見つけるのは意外に楽しかった。
朽ちかけた木の棚の奥で、健太の手は小さな何かに触れた。それは温かく、そして――動いていた。
「うわあっ!」
健太は思わず手を引っ込めたが、好奇心が勝って、そっと棚の奥を覗き込んだ。すると、そこには信じられない光景があった。
手のひらほどの大きさの小さな男性が、きちんとした背広を着て、健太を見上げていたのだ。小さな顔には立派な髭が生え、頭には山高帽が載っている。まるで昔の紳士のような恰好だった。
「こんにちは、健太君」
小さいおじさんは、丁寧にお辞儀をしながら言った。その声は確かに健太の耳に届いていたが、音というよりも、直接心に響いてくるような不思議な感覚だった。
「え、ええっ!? ぼ、僕の名前を知ってるの?」
「もちろんです。私はギルバート。記憶の庭から参りました」
ギルバートと名乗った小さいおじさんは、山高帽を脱いで再びお辞儀をした。健太は目を擦り、首を振ったが、ギルバートはちゃんとそこにいた。
「記憶の庭って何? それに、なんで僕にだけ見えるの?」
「それは長いお話になります。まずは、お茶でもいかがですか?」
ギルバートがポケットから取り出したのは、米粒ほどの大きさの急須だった。その急須から立ち上る湯気は、なぜか健太の鼻にもはっきりと香った。懐かしい紅茶の匂いだった。
第二章 記憶の庭
「記憶の庭というのは」ギルバートは小さなカップに紅茶を注ぎながら説明を始めた。「人々の心から消えかけた思い出や、忘れ去られたものたちが集まる場所なのです」
健太は物置の床に座り込み、ギルバートの話に耳を傾けた。
「例えば、子供の頃に大切にしていたおもちゃ。亡くなったおじいさんとの思い出。友達と遊んだ秘密基地。そういった、心の奥底に仕舞い込まれてしまった大切なものたちが、記憶の庭では生き続けているのです」
「それで、ギルバートさんは?」
「私たちは『小さい人』と呼ばれています。忘れ去られた記憶たちを守り、手入れをするのが私たちの役目です」ギルバートは胸を張って言った。「でも、私たちの姿が見える人間は、とても少ないのです。心の優しい、純粋な人にしか」
健太は頬を赤らめた。自分が特別だと言われているようで、照れくさかった。
「健太君は学校で何か困っていることはありませんか?」
突然の質問に、健太は驚いた。実は、最近クラスの田中と些細なことで喧嘩をしていた。お互い意地を張って、もう一week間も口を利いていない。
「どうして分かるの?」
「記憶の庭では、いろいろなことが見えるのです。田中君も本当は仲直りしたがっていますよ」
ギルバートは優しく微笑んだ。その笑顔を見ているうちに、健太の心も軽くなってきた。
第三章 日常の変化
それから毎日、健太は物置でギルバートと過ごすようになった。ギルバートは時にはユーモラスに、時には哲学的に、健太の悩みに耳を傾けてくれた。
田中との仲直りのきっかけも、ギルバートが教えてくれた。
「謝るのは負けることではありません。友情を大切にする勇気なのです」
ギルバートの言葉に後押しされて、健太は田中に謝った。田中も実は謝りたいと思っていたようで、二人はすぐに元の仲良しに戻った。
家族との時間も、以前より大切に思えるようになった。父親の仕事の話、母親の料理、祖母の昔話。それまで当たり前すぎて気にも留めなかったことが、実はとても貴重な「記憶」なのだとギルバートが教えてくれたからだ。
「人は、失ってから気づくものです。でも健太君は、まだ失う前に気づくことができた。それはとても素晴らしいことですよ」
第四章 迫りくる危機
しかし、ある日ギルバートの表情が曇っていることに健太は気づいた。
「どうしたの? 何か心配事があるの?」
ギルバートは小さくため息をついた。
「実は、記憶の庭に危機が迫っているのです」
「危機って?」
「最近の人々は、物質的な豊かさばかりを追い求めて、心の中の『記憶』をないがしろにするようになっています。新しいものばかりを欲しがって、古いものや思い出を大切にしなくなった」
ギルバートの声は悲しげだった。
「そのため、記憶の庭は徐々に力を失い、縮小しているのです。このままでは、庭は完全に消滅してしまうかもしれません」
「それって、ギルバートさんたちも…」
「ええ。記憶の庭がなくなれば、私たち小さい人も存在できなくなります」
健太は愕然とした。やっと出会えた大切な友達を、もう失ってしまうかもしれないなんて。
「何か方法はないの? 僕に何かできることは?」
ギルバートは健太の真剣な表情を見つめ、希望の光を宿した瞳で言った。
「もしかしたら、あるかもしれません。でも、とても大変なことになりますよ」
第五章 失われた記憶を求めて
ギルバートが説明した方法は、確かに大変なものだった。街中に散らばっている「忘れ去られた記憶」を見つけて、それらに再び光を当てることで、記憶の庭に力を取り戻させるというのだ。
「でも、どうやって忘れ去られた記憶を見つけるの?」
「私がいれば大丈夫です。記憶の欠片は、小さい人には見えるのです」
健太はギルバートをポケットに忍ばせて、街へ出かけた。最初に向かったのは商店街だった。
「あそこです! あの古い時計屋さん」
ギルバートが指した先には、シャッターが半分下りた小さな時計屋があった。店主のおじいさんが一人で店番をしている。
「このお店、もうすぐ閉店してしまうんです。お客さんがほとんど来なくなって」ギルバートが悲しそうに言った。「でも、ここにはたくさんの思い出が詰まっているのです」
健太は勇気を出して店に入った。おじいさんは優しそうな人で、健太が時計に興味を示すと、嬉しそうに話をしてくれた。
「この時計はね、50年前に作ったんだよ。当時はまだ結婚したばかりでね…」
おじいさんの話を聞いているうちに、健太は不思議な感覚を覚えた。まるで、その時計に宿った記憶が蘇ってくるような感覚だった。
店を出ると、ギルバートが興奮していた。
「素晴らしい! 健太君が心を込めて話を聞いたおかげで、記憶が輝きを取り戻しました!」
第六章 広がる輪
その日から、健太は街のあちこちで「忘れ去られた記憶」を探すようになった。古い写真屋、手作りのお菓子を売る小さな店、公園の隅にある古い滑り台。
そのうち、健太は気づいた。記憶を取り戻すのに必要なのは、特別な力ではなく、ただ「関心を持つこと」「話を聞くこと」「大切にすること」だということを。
健太は家族にも話した。父親は最初は半信半疑だったが、健太の真剣さに心を動かされ、一緒に祖父の形見の万年筆を手入れしてくれた。母親は古いアルバムを引っ張り出して、健太の幼い頃の写真を見ながら思い出話をしてくれた。
学校でも、健太は友達に働きかけた。図書室にある古い本を読んだり、用務員のおじさんから学校の歴史を聞いたり。最初はみんな不思議がったが、健太の熱意に感化されて、だんだん協力してくれるようになった。
「すごいです!」ギルバートは毎日のように興奮していた。「記憶の庭に、どんどん力が戻ってきています!」
第七章 最後の試練
夏休みも終わりに近づいた頃、ギルバートが深刻な表情で健太に告げた。
「健太君、最後に一つだけ、とても大切なことをお願いしなければなりません」
「何?」
「健太君自身の記憶を、記憶の庭に託してほしいのです」
健太は困惑した。「僕の記憶って?」
「この夏、私たちが過ごした記憶です。でも、その記憶を庭に託すということは…」
ギルバートは言いにくそうに続けた。
「健太君は、私のことを忘れてしまうかもしれません」
健太は息を呑んだ。「そんな…忘れるなんて嫌だよ!」
「でも、その記憶が庭の核となって、永遠に多くの人々の心を温かくするのです。健太君との思い出が、これから先、たくさんの人の支えになるのです」
涙が溢れそうになったが、健太は懸命に堪えた。ギルバートの悲しそうな、でも決意に満ちた表情を見ていると、これが正しいことなのだと分かった。
「分かった。でも、条件がある」
「条件ですか?」
「絶対に、心のどこかで覚えていることを約束して。完全に忘れるんじゃなくて、小さくても、何かの形で記憶を残すことを」
ギルバートは微笑んだ。「約束します」
第八章 新しい始まり
記憶を託す儀式は、夏休み最後の夜に行われた。健太は物置で、ギルバートと最後の時間を過ごした。
「健太君」ギルバートが言った。「あなたに出会えて、本当に幸せでした」
「僕もだよ。ギルバートさんのおかげで、僕はたくさんのことを学んだ」
二人は手を繋いだ。ギルバートの小さな手は、とても温かかった。
不思議な光に包まれて、健太の意識は静かに遠のいていった。
翌朝、健太は物置で目を覚ました。なぜここで寝ていたのか分からなかったが、とても清々しい気分だった。心の奥底に、何か大切なことを忘れているような気もしたが、それは決して嫌な感覚ではなかった。
新学期が始まると、健太は相変わらず友達思いで、家族を大切にする優しい少年だった。でも、以前よりもさらに、古いものや忘れ去られそうなものに興味を示すようになった。
時々、街を歩いていると、小さな時計屋のおじいさんや、昔ながらのお菓子屋さんに立ち寄りたくなる。そして話を聞いているうちに、心が温かくなるのを感じるのだった。
エピローグ
健太が中学生になった春の日、物置を掃除していると、小さな山高帽を見つけた。それは親指ほどの大きさで、とても精巧に作られていた。
なぜか懐かしい気持ちになって、健太はその帽子を大切にポケットにしまった。
その夜、夢の中で健太は小さなおじさんに会った。おじさんは背広を着て、立派な髭を生やしていた。
「ありがとう、健太君」おじさんは微笑んで言った。「おかげで記憶の庭は、今も美しく咲き誇っています」
健太は答えようとしたが、声が出なかった。でも、心は温かな感謝の気持ちで満たされていた。
目を覚ますと、夢の内容はすっかり忘れてしまったけれど、とても幸せな気分だった。
そして健太は、今日もまた誰かの大切な記憶を見つけに行こうと思うのだった。小さな山高帽をポケットに忍ばせて。
――記憶の庭は、今日も静かに、人々の心の奥で輝き続けている。