断絶の音~集合知からの脱落者〜
第一章 静寂の朝
目が覚めた瞬間、僕は自分がひとりだということを思い知らされた。
頭の中に響いているはずの「声」がない。数億人の思考が織り成す美しいハーモニーが、まるで最初からそんなものは存在しなかったかのように、完全に沈黙している。
「また、か……」
ベッドから身を起こしながら、僕——桐生遥斗は深くため息をついた。壁のディスプレイには既に警告メッセージが点滅している。
『接続エラー:ユーザーID:7734958621 集合知ネットワークへの接続が不安定です。至急メンテナンスセンターへご来店ください』
三日前から始まった症状だった。最初は数秒の途切れだったのが、昨日は数分、そして今朝は完全に沈黙している。
シャワーを浴びながら、僕は「普通」だった頃のことを思い出そうとした。集合知に接続された状態での朝は、まるで世界中の人々と共に目覚めるようなものだった。数億の意識が融合した巨大な知性の一部として、僕は存在していた。
数学の問題に悩む高校生がいれば、瞬時に最適解が共有される。新しい料理のレシピを考える主婦がいれば、世界中の美食家の知識が集約される。病気に苦しむ患者がいれば、あらゆる医学知識が統合されて最良の治療法が導き出される。
それは確かに素晴らしいシステムだった。人類は飢餓も、戦争も、環境破壊も、ほぼ完全に克服した。なぜなら、全ての問題に対して人類の全知識が瞬時に投入されるからだ。
でも今、頭の中が静かすぎて、自分の心音が騒音のように感じられる。
第二章 接続の意味
メンテナンスセンターは、いつものように静謐だった。来院者はほとんどいない。なぜなら、集合知システムは99.97%の稼働率を誇っているからだ。
「桐生さんですね」
白衣の女性——名札には「田中恵美」とある——が僕を見つめた。彼女の瞳には、集合知接続者特有の薄い光が宿っている。リアルタイムで情報処理を行っている証拠だ。
「あ、はい。接続が切れて……」
「既に拝見しています」
僕が説明する前に、彼女は微笑んだ。当然だ。僕の症状は既にネットワーク上で共有され、分析されている。
検査は簡単だった。頭部のインプラント周辺をスキャンするだけ。結果も即座に出る。
「物理的な異常はありません」田中さんは首を振った。「でも……これは珍しいケースですね」
「珍しい?」
「桐生さんの脳波パターンが、集合知との同期を拒絶しているんです。まるで意図的に接続を避けているかのように」
意図的?馬鹿な。僕が集合知から離れたいなんて思うわけがない。あのシステムなしでは、現代社会では生きていけない。
「一時的な現象だと思います」田中さんは優しく言った。「数日様子を見てください。それでも改善しなければ、より詳しい検査を」
でも、僕にはなぜかわかっていた。これは治らない、と。
第三章 孤独の重さ
会社に着くと、同僚たちの視線が痛かった。
集合知に接続された人間は、相手の接続状態を直感的に理解できる。僕が「切れている」ことは、一目瞭然だった。
「遥斗、大丈夫?」
同期の山田が心配そうに声をかけてきた。彼の目にも、あの薄い光が宿っている。
「ああ、ちょっと調子が悪くて」
「そっか……なんか、君を見てると不安になるよ」
不安。そうだ、接続された人間にとって、切れた人間の存在は不安要素でしかない。なぜなら、その人が何を考えているかわからないから。
会議は地獄だった。
新製品の企画会議で、参加者全員が集合知を通じて情報を共有している中、僕だけが置き去りにされた。彼らの会話は、言葉ではなく意識レベルで行われているのだ。
「桐生君、どう思う?」
部長の質問に、僕は慌てた。何について議論していたのかさえわからない。
「あの……すみません、もう一度お聞かせください」
部屋に気まずい沈黙が流れた。集合知に接続された人間が、情報を聞き返すなんてことは、通常ありえない。
第四章 忘れていた感覚
その日の帰り道、僕は久しぶりに「歩いた」。
いつもなら、集合知システムが最適な交通手段と経路を計算してくれる。でも今は、自分で考えなければならない。
商店街を通り抜けていると、ふと甘い匂いがした。
「たい焼き、いかがですか〜」
屋台のおじさんが声をかけてくる。集合知に接続されていれば、この店の売上データから衛生管理状況まで瞬時に把握できるのだが、今の僕にはそれができない。
でも、なぜか足が止まった。
「一個ください」
「あんこと白あん、どっちにします?」
どっちが良いのか、データがないからわからない。でも……
「あんこで」
なんとなく、そう答えた。根拠のない選択。久しぶりだった。
たい焼きを頬張りながら歩いていると、小さな公園で一人の少女が泣いているのを見つけた。
集合知システムなら、即座に彼女の身元を特定し、最適な対処法を提案してくれただろう。でも今の僕には、ただ一つの選択肢しかなかった。
「どうしたの?」
少女——小学生くらいだろうか——は涙を拭いながら答えた。
「お母さんがいない……迷子になっちゃった」
「大丈夫、一緒に探そう」
僕は彼女の手を引いて立ち上がらせた。集合知なら瞬時に解決できる問題を、僕たちは足で探し回った。20分後、ようやく心配していた母親と再会できた。
「ありがとうございました!」
母親は深々と頭を下げた。その時、僕は気づいた。彼女の目に光がない。集合知に接続されていないのだ。
「あの……」
「ええ、私たち親子は、システムに登録していないんです」母親は少し寂しそうに微笑んだ。「不便ですけど、自分たちで考えて生きていきたくて」
第五章 選択の意味
家に帰ると、玄関で待っていたのは恋人の佐々木美咲だった。
「遥斗……」
彼女の目には涙が浮かんでいた。集合知に接続された彼女には、僕の状態が手に取るようにわかるのだろう。
「美咲……」
「なぜなの?」彼女は僕の胸に顔を埋めた。「なぜ、拒絶するの?私たちから離れようとするの?」
拒絶?僕が?
「違う、僕は……」
でも、その時ふと気づいた。田中さんの言葉を思い出した。「まるで意図的に接続を避けているかのように」
もしかして、僕は無意識のうちに、集合知システムを拒絶しているのだろうか?
「美咲、君に聞きたいことがある」
僕は彼女の肩を抱いた。
「君は、僕のことを本当に愛してくれているの?それとも、集合知が計算した『最適なパートナー』だから僕を選んだの?」
美咲は困惑した表情を見せた。
「それは……そんなこと、考えたこともなかった」
そうだ。集合知に接続された人間は、そんなことを考える必要がない。システムが最適解を提示してくれるから。
「僕は君を愛している」僕は彼女の目を見つめた。「でも、それが本当に僕の気持ちなのか、システムが導き出した結論なのか、わからなくなってしまった」
第六章 断絶の音
翌日、僕は会社に辞表を提出した。
「桐生君、君は優秀な社員だった」部長は困惑していた。「接続が回復すれば、また……」
「ありがとうございます。でも、僕はもう戻りません」
メンテナンスセンターにも連絡した。治療の中止を申し出ると、田中さんは驚いた。
「本当によろしいのですか?現代社会で、集合知なしで生活するのは非常に困難です」
「わかっています」
僕は微笑んだ。初めて、心の底からの笑顔だった。
「でも、僕は僕の頭で考えたいんです。失敗しても、間違っても、それが僕の選択なら」
エピローグ 新しい音
三ヶ月後、僕は小さな町に移住していた。集合知システムの普及率が低い、過疎の村だった。
古い家を借りて、畑を耕している。不便だし、効率も悪い。でも、毎日が新鮮だった。
朝起きると、鳥の声が聞こえる。集合知の「声」ではなく、本物の鳥の声が。
野菜を育てるのに、データベースではなく近所のおじいさんのアドバイスを聞く。時々間違っているけれど、それでも僕は自分で判断して行動する。
夜になると、星空を見上げる。集合知なら瞬時に天体の情報を教えてくれるだろうが、今の僕には、ただ美しいとしか思えない。そして、それで十分だった。
美咲からは時々連絡が来る。「戻ってきて」と。でも、僕の答えは決まっている。
「君が、システムではなく君自身の意志で僕を必要としてくれるなら、いつでも迎えるよ」
頭の中は、今も静かだ。でも、それは孤独な静寂ではない。
自分だけの思考が響く、かけがえのない音だった。
「人は、失って初めて、それが何だったのかを知る。でも時として、失うことでしか得られないものもある。それは、自分自身という、たった一つの音だった」