最適化された世界の歪み
あらすじ
感情を数値化して管理するシステムが支配する未来世界で、主人公の高校生・真琴は禁書を読んで「悲しみ」を感じてしまう。システムの調整を拒んだ彼は地下図書館で真の感情を学び、やがて人々が封印された感情を取り戻す革命が始まる。不完全だが人間らしい新世界を描いたSF小説
第一章 完璧な朝
アラームが鳴る前に、僕は目を覚ました。
脳内インプラント『エモ・オプティマイザー』が睡眠の最適なタイミングを計算し、レム睡眠の浅い時点で意識を浮上させる。目覚めと同時に、今日の感情プロファイルがHUD(ヘッドアップディスプレイ)に表示された。
幸福度:85.2%
生産性指数:91.7%
ストレス値:4.3%
推奨感情モード:穏やかな集中
「おはよう、真琴君」
AIアシスタント『エミ』の声が脳内に響く。僕の担当カウンセラーAIで、十七年間ずっと僕の感情を管理してくれている。
「今日も良い数値ですね。朝食には幸福度を93%まで押し上げるセロトニン強化プロテインをお勧めします」
僕、橋本真琴は頷いて、ベッドから起き上がった。鏡に映る自分の顔は、いつものように穏やかで、適度に満足した表情をしている。感情最適化システムが導入されてから、人類は悲しみも怒りも嫉妬も知らない。みんな常に幸福で、生産的で、調和している。
完璧な世界だった。
第二章 異常値の発見
学校では、いつものように効率的な授業が行われていた。生徒たちの集中度をリアルタイムで監視しながら、AIが最適な学習ペースを調整する。誰も居眠りしないし、誰もイライラしない。
「真琴、ちょっといいかな?」
授業後、担任の田中先生に呼ばれた。先生も僕たちと同じように、常に優しく微笑んでいる。怒ることも、悲しむことも、システムが許可していない。
「君の昨日の感情データに少し気になる箇所があってね」
先生がタブレットを僕に向けた。グラフに表示されているのは、昨日の僕の感情推移。ほぼ平坦な線が続いているが、午後3時17分のところで小さなスパイクがある。
「この時間、君は何をしていた?」
「えっと…確か、図書館で読書を…」
そうだ。僕は古い小説を読んでいた。システムが推奨する自己啓発書ではなく、禁書指定されている恋愛小説を。主人公が恋人を失って泣く場面で、なぜか胸が痛くなったんだ。
「この数値は『悲しみ』に分類される感情だね。現在のシステムでは測定不能とされている異常値だ」
田中先生の笑顔が一瞬だけ揺らいだような気がした。
「心配いらないよ。軽微な調整で済む。明日の朝、感情調整センターに来てくれるかな?」
第三章 消えゆく感情
その夜、僕は眠れなかった。いや、正確には眠ろうとしなかった。エモ・オプティマイザーが最適な睡眠を促そうとしているのに、僕はそれに逆らっていた。
なぜだろう?
あの小説の主人公が感じていた「悲しみ」という感情。システムエラーと判定されたその感情が、なぜか僕の心に深く刻まれている。それは確かに苦しかった。でも、同時に…美しくもあった。
「真琴君、心拍数が上昇しています。リラックスドラッグを投与しましょうか?」
エミの声に、僕は首を振った。
「いや、大丈夫」
「でも…」
「本当に大丈夫だから」
僕は窓の外を見つめた。街に並ぶ高層ビルには、巨大なスクリーンに映し出される市民の平均幸福度が表示されている。今日は97.3%。素晴らしい数値だ。
でも、なぜか虚しかった。
第四章 システムの向こう側
翌朝、感情調整センターに向かう途中、僕は奇妙な光景を目にした。
路地裏で、一人の老人が座り込んでいた。その顔には、僕が見たことのない表情があった。眉間にしわを寄せ、口元を歪ませている。システムが絶対に表示を許可しない感情。
「あの…大丈夫ですか?」
声をかけると、老人はゆっくりと顔を上げた。その目には、涙が浮かんでいる。
「君は…まだ若いな」老人は掠れた声で呟いた。「システムが導入される前のことを、覚えているかい?」
「いえ、僕が生まれた時にはもう…」
「そうか」老人は苦笑いを浮かべた。「君たちは知らないんだな。人間がどれほど美しく、そして醜い生き物だったかを」
老人は立ち上がると、僕の肩に手を置いた。
「感情は数値じゃない。最適化できるものでもない。それは人間の魂そのものだ。君がもし、システムの向こう側を見たいなら…」
老人は僕に小さな紙切れを渡した。
「ここに来なさい。今夜、23時に」
第五章 地下の図書館
指定された場所は、廃墟となった地下鉄の駅だった。システム導入後、効率的な移動手段として廃止された旧時代の遺物。
恐る恐る階段を降りると、薄暗い空間に温かな光が灯っていた。そこには信じられない光景があった。
本だ。無数の本が壁一面に並んでいる。システムが「非効率的」として廃棄したはずの、紙の本が。
「来たね」
昼間の老人が、本の間から現れた。その表情は昼間とは違っていた。穏やかで、でもどこか悲しげで、そして温かかった。
「ここは何ですか?」
「地下図書館。システム導入前の書物を保存している場所だ。感情の記録、とも言える」
老人は僕を本棚の前に案内した。
「恋愛小説、悲劇、喜劇、怒りや嫉妬を描いた作品…人間のあらゆる感情がここに詰まっている。システムが『エラー』と判定する感情のすべてが」
僕は一冊の本を手に取った。『人間失格』という題名だった。
「それを読んでみなさい。そして感じなさい。システムが奪い去ったものを」
第六章 禁じられた感情
その本を読み進めるうちに、僕の胸に今まで経験したことのない感情が湧き上がってきた。
絶望。孤独。自己嫌悪。苦悩。
エモ・オプティマイザーが警告音を鳴らし続けているが、僕はそれを無視した。この痛みを、この苦しみを、もっと感じたかった。
「どうだ?」老人が静かに聞いた。
「苦しいです」僕は正直に答えた。「でも…」
「でも?」
「美しいとも思います。この痛みの中に、何か大切なものがあるような気がして」
老人は微笑んだ。システムが生成する完璧な笑顔ではない、皺だらけの、でも心からの笑顔だった。
「君は理解し始めている。感情とは光と影だ。喜びがあるから悲しみが際立ち、愛があるから憎しみが意味を持つ。システムは光だけを残そうとしたが、影を消せば光も意味を失うんだ」
第七章 選択の時
翌日、僕は感情調整センターに向かった。でも、足取りは重かった。
調整室では、白衣を着た医師が僕を迎えた。その顔も、もちろん完璧に最適化された笑顔だった。
「橋本真琴君ですね。簡単な処置です。30分ほどで終わります」
医師は僕の頭にケーブルを接続しようとした。その時、僕は立ち上がった。
「待ってください」
「どうしました?」
「僕は…調整を受けたくありません」
医師の笑顔が一瞬だけ止まった。
「真琴君、君は混乱しています。システムエラーがそう感じさせているのです。調整すれば楽になりますよ」
「でも、この感情は僕のものです。エラーでも何でもない」
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