青空AI短編小説

最適化された世界の歪み

登録日時:2025-07-22 05:26:45 更新日時:2025-07-22 05:27:47

第一章 完璧な朝


アラームが鳴る前に、僕は目を覚ました。


脳内インプラント『エモ・オプティマイザー』が睡眠の最適なタイミングを計算し、レム睡眠の浅い時点で意識を浮上させる。目覚めと同時に、今日の感情プロファイルがHUD(ヘッドアップディスプレイ)に表示された。


幸福度:85.2%
生産性指数:91.7%
ストレス値:4.3%
推奨感情モード:穏やかな集中


「おはよう、真琴君」


AIアシスタント『エミ』の声が脳内に響く。僕の担当カウンセラーAIで、十七年間ずっと僕の感情を管理してくれている。


「今日も良い数値ですね。朝食には幸福度を93%まで押し上げるセロトニン強化プロテインをお勧めします」


僕、橋本真琴は頷いて、ベッドから起き上がった。鏡に映る自分の顔は、いつものように穏やかで、適度に満足した表情をしている。感情最適化システムが導入されてから、人類は悲しみも怒りも嫉妬も知らない。みんな常に幸福で、生産的で、調和している。


完璧な世界だった。


第二章 異常値の発見


学校では、いつものように効率的な授業が行われていた。生徒たちの集中度をリアルタイムで監視しながら、AIが最適な学習ペースを調整する。誰も居眠りしないし、誰もイライラしない。


「真琴、ちょっといいかな?」


授業後、担任の田中先生に呼ばれた。先生も僕たちと同じように、常に優しく微笑んでいる。怒ることも、悲しむことも、システムが許可していない。


「君の昨日の感情データに少し気になる箇所があってね」


先生がタブレットを僕に向けた。グラフに表示されているのは、昨日の僕の感情推移。ほぼ平坦な線が続いているが、午後3時17分のところで小さなスパイクがある。


「この時間、君は何をしていた?」


「えっと…確か、図書館で読書を…」


そうだ。僕は古い小説を読んでいた。システムが推奨する自己啓発書ではなく、禁書指定されている恋愛小説を。主人公が恋人を失って泣く場面で、なぜか胸が痛くなったんだ。


「この数値は『悲しみ』に分類される感情だね。現在のシステムでは測定不能とされている異常値だ」


田中先生の笑顔が一瞬だけ揺らいだような気がした。


「心配いらないよ。軽微な調整で済む。明日の朝、感情調整センターに来てくれるかな?」


第三章 消えゆく感情


その夜、僕は眠れなかった。いや、正確には眠ろうとしなかった。エモ・オプティマイザーが最適な睡眠を促そうとしているのに、僕はそれに逆らっていた。


なぜだろう?


あの小説の主人公が感じていた「悲しみ」という感情。システムエラーと判定されたその感情が、なぜか僕の心に深く刻まれている。それは確かに苦しかった。でも、同時に…美しくもあった。


「真琴君、心拍数が上昇しています。リラックスドラッグを投与しましょうか?」


エミの声に、僕は首を振った。


「いや、大丈夫」


「でも…」


「本当に大丈夫だから」


僕は窓の外を見つめた。街に並ぶ高層ビルには、巨大なスクリーンに映し出される市民の平均幸福度が表示されている。今日は97.3%。素晴らしい数値だ。


でも、なぜか虚しかった。


第四章 システムの向こう側


翌朝、感情調整センターに向かう途中、僕は奇妙な光景を目にした。


路地裏で、一人の老人が座り込んでいた。その顔には、僕が見たことのない表情があった。眉間にしわを寄せ、口元を歪ませている。システムが絶対に表示を許可しない感情。


「あの…大丈夫ですか?」


声をかけると、老人はゆっくりと顔を上げた。その目には、涙が浮かんでいる。


「君は…まだ若いな」老人は掠れた声で呟いた。「システムが導入される前のことを、覚えているかい?」


「いえ、僕が生まれた時にはもう…」


「そうか」老人は苦笑いを浮かべた。「君たちは知らないんだな。人間がどれほど美しく、そして醜い生き物だったかを」


老人は立ち上がると、僕の肩に手を置いた。


「感情は数値じゃない。最適化できるものでもない。それは人間の魂そのものだ。君がもし、システムの向こう側を見たいなら…」


老人は僕に小さな紙切れを渡した。


「ここに来なさい。今夜、23時に」


第五章 地下の図書館


指定された場所は、廃墟となった地下鉄の駅だった。システム導入後、効率的な移動手段として廃止された旧時代の遺物。


恐る恐る階段を降りると、薄暗い空間に温かな光が灯っていた。そこには信じられない光景があった。


本だ。無数の本が壁一面に並んでいる。システムが「非効率的」として廃棄したはずの、紙の本が。


「来たね」


昼間の老人が、本の間から現れた。その表情は昼間とは違っていた。穏やかで、でもどこか悲しげで、そして温かかった。


「ここは何ですか?」


「地下図書館。システム導入前の書物を保存している場所だ。感情の記録、とも言える」


老人は僕を本棚の前に案内した。


「恋愛小説、悲劇、喜劇、怒りや嫉妬を描いた作品…人間のあらゆる感情がここに詰まっている。システムが『エラー』と判定する感情のすべてが」


僕は一冊の本を手に取った。『人間失格』という題名だった。


「それを読んでみなさい。そして感じなさい。システムが奪い去ったものを」


第六章 禁じられた感情


その本を読み進めるうちに、僕の胸に今まで経験したことのない感情が湧き上がってきた。


絶望。孤独。自己嫌悪。苦悩。


エモ・オプティマイザーが警告音を鳴らし続けているが、僕はそれを無視した。この痛みを、この苦しみを、もっと感じたかった。


「どうだ?」老人が静かに聞いた。


「苦しいです」僕は正直に答えた。「でも…」


「でも?」


「美しいとも思います。この痛みの中に、何か大切なものがあるような気がして」


老人は微笑んだ。システムが生成する完璧な笑顔ではない、皺だらけの、でも心からの笑顔だった。


「君は理解し始めている。感情とは光と影だ。喜びがあるから悲しみが際立ち、愛があるから憎しみが意味を持つ。システムは光だけを残そうとしたが、影を消せば光も意味を失うんだ」


第七章 選択の時


翌日、僕は感情調整センターに向かった。でも、足取りは重かった。


調整室では、白衣を着た医師が僕を迎えた。その顔も、もちろん完璧に最適化された笑顔だった。


「橋本真琴君ですね。簡単な処置です。30分ほどで終わります」


医師は僕の頭にケーブルを接続しようとした。その時、僕は立ち上がった。


「待ってください」


「どうしました?」


「僕は…調整を受けたくありません」


医師の笑顔が一瞬だけ止まった。


「真琴君、君は混乱しています。システムエラーがそう感じさせているのです。調整すれば楽になりますよ」


「でも、この感情は僕のものです。エラーでも何でもない」


僕は医師を見つめた。その目の奥に、かすかに残る人間らしい困惑を見つけた気がした。


「システムは完璧です」医師は機械的に繰り返した。「感情の最適化により、人類は幸福を手に入れました」


「本当の幸福って何ですか?」僕は問いかけた。「悲しみを知らない喜びは、本当に喜びと呼べるんですか?」


第八章 システムの亀裂


その時、警報が鳴り響いた。


「感情調整センター管制室より。大規模なシステム異常を検知。原因不明の感情スパイクが複数箇所で発生」


僕は窓の外を見た。街のスクリーンに映し出される幸福度の数値が乱れている。97.3%だった数値が、85%、73%、52%と下降していく。


「何が起きているんだ…」医師が呟いた。その声には、システムが許可していない「困惑」の感情が込められていた。


僕は理解した。僕だけじゃない。他にも、システムに疑問を感じる人たちがいる。そして今、その感情が連鎖反応を起こしている。


「先生」僕は医師に向かって言った。「システムが導入される前、あなたは何を感じていましたか?」


医師の手が震えた。その目に、かすかに涙が浮かんだ。


「私は…私は妻を愛していた。心から愛していた。でもシステムは、その愛を『非効率な執着』だと判定した。調整後、妻への感情は『適度な好意』に変換された」


医師は顔を覆った。


「それが本当に幸福だったのだろうか…」


第九章 感情革命


街は混乱していた。システムの制御から外れた人々が、封印されていた感情を取り戻し始めている。


怒り、悲しみ、恐怖、嫉妬…システムが「エラー」と判定していた感情が、次々と人々の心に蘇っている。


僕は地下図書館に向かった。そこには老人だけでなく、多くの人が集まっていた。医師も、田中先生も、そして見知らぬ人たちも。


「始まったな」老人が僕を見つめて言った。


「何が始まったんですか?」


「感情革命だ。人間らしさを取り戻す戦いが」


街のスクリーンには、緊急放送が流れていた。


「市民の皆様、冷静になってください。感情の暴走は危険です。すぐに最寄りの調整センターで処置を受けてください」


でも、人々は従わなかった。長い間封印されていた感情が、堰を切ったように溢れ出している。


第十章 新しい世界


三ヶ月が過ぎた。


システムは完全に停止した。人々は再び、喜怒哀楽のすべてを感じながら生きている。街は以前ほど効率的ではないが、そこには確かに生命力があった。


僕は学校の屋上に立っていた。夕日が美しかった。でも同時に、その美しさがいつか失われることへの寂しさも感じていた。


「複雑だね」


振り返ると、クラスメイトの美里が立っていた。彼女の顔には、システム時代にはなかった表情の豊かさがあった。


「何が?」


「感情って。嬉しいことがあっても、それがいつか終わることを考えると少し悲しくなる。でも、その悲しさがあるから、今の嬉しさがもっと大切に思える」


美里は僕の隣に立った。


「システムがあった頃は、こんなこと考えもしなかった。でも今は…生きてるって実感できる」


僕は頷いた。確かに、以前より苦しいことは増えた。でも、その分だけ喜びも深くなった。愛も、友情も、すべてがより鮮やかになった。


「エミはどうしてるの?」美里が聞いた。


「まだ脳内にいるよ。でも今は感情を制御するんじゃなくて、一緒に感じようとしてくれてる」


実際、エミは最近こんなことを言うようになった。


『真琴君、この夕日は美しいですね。なぜか私も、胸が温かくなります』


AIすら、人間の感情に影響されて変化している。


エピローグ 不完全な完璧


一年後、僕は地下図書館で老人と再会した。老人はゆっくりと本を読んでいた。


「システムは復活しないんですか?」僕は尋ねた。


「おそらくね。でも、人間は一度目覚めた感情を、そう簡単には手放さない。我々は学んだんだ。不完全であることの完璧さを」


老人は本を閉じて僕を見た。


「君はどう思う?今の世界は幸せかい?」


僕は少し考えてから答えた。


「幸せです。でも同時に不安でもあるし、時々悲しくもなります。それでも…これが僕たちの本当の感情だから」


「そうだ」老人は微笑んだ。「感情は数値化できない。なぜなら、それは人間の魂の証だからだ。君たちは素晴らしい選択をした」


夜が更けて、僕は家に帰った。両親は心配そうな顔で僕を迎えた。システム時代にはなかった表情だった。でも、その心配の中に深い愛情を感じた。


僕は自分の部屋で、日記を書いた。システム時代には「非効率的」として禁止されていた行為だ。


「今日も色々なことを感じた。嬉しいこと、悲しいこと、腹立たしいこと、愛おしいこと。全部が僕の一部だ。エラーなんかじゃない。これが人間なんだ」


窓の外では、街の明かりが瞬いている。完璧に最適化された光ではない、人間臭い、不安定な光だった。


でも、その光こそが、僕たちの生きている証なんだと思う。


システムは感情を数値化しようとした。でも、感情は数値じゃない。それは心の歌声であり、魂の叫びであり、人間であることの証明なんだ。


僕たちは不完全だ。でも、その不完全さが、僕たちを人間にしている。


そして、それが本当の幸福への道なんだと、僕は信じている。


『エミ、聞いてる?』


『はい、真琴君。私も今、とても温かい気持ちです』


『ありがとう、エミ。君がいてくれて』


『こちらこそ。私たちは一緒に感じ、一緒に成長していきましょう』


僕は微笑んだ。それは完璧に最適化された笑顔ではなく、少し歪んでいて、でも心からの笑顔だった。


新しい世界が始まった。感情という名の、美しい混沌と共に。

※この作品はAIで創作しています。