声なき声の立候補
プロローグ 雨の中の叫び
「うっせーんだよ、建前野郎!」
雨に濡れた街頭で、黒崎響は喉が潰れるほどの大声を張り上げていた。手にした拡声器から響く怒声は、向かいで演説をする若手候補者の声をかき消していく。
「そんな綺麗事で世の中が変わるかよ!」
周りに集まった「カラス」の仲間たちも、それぞれ思い思いの罵声を浴びせる。響にとって、これは政治活動ではない。ただ単純に、自分たちの鬱憤を晴らすための手段に過ぎなかった。
候補者——藤堂慎一は、雨に濡れながらもマイクを握り続けている。
「皆さん、私たちは対話をしましょう!」
藤堂の声が響く。そして、まっすぐに響を見据えて言った。
「もし、あなたに本当に何か発言したいことがあるのなら、そうやって闇から叫ぶのではなく、きちんと立候補して、正々堂々、ご自身の言葉で語りなさい!」
響の心臓が、ドクンと大きく鼓動した。
第一章 煽動者の日常
翌日、響はいつものファミレスで仲間たちと愚痴をこぼしていた。
「昨日のあの野郎、なんだよあの言い方!」
「『立候補しろ』だって?冗談じゃねぇよ」
テーブルを囲むのは、響と同じように社会に居場所を見つけられない若者たち。カラスのメンバーだ。リーダー格の佐藤、ハッカー気質の田中、そして響の幼馴染みの山田。
「でもさ」山田が口を開く。「響なら案外、本当に立候補できるんじゃない?」
「は?」
響は田中のスマホから顔を上げた。SNSで昨日の件について書き込んでいたのだ。
「だって響、昔から人を説得するの上手だったじゃん。中学の時だって——」
「それとこれとは話が違うだろ」
響は慌てて否定した。しかし、藤堂の言葉が頭から離れない。
『正々堂々、ご自身の言葉で語りなさい』
第二章 突然の宣言
それから一週間。響は自分でも驚くほど、政治について調べるようになっていた。
地方議会の仕組み、選挙制度、立候補の条件——。
「なんで俺がこんなことを…」
そんな時、ニュースで地元の補欠選挙の報道が流れた。現職議員の不祥事による辞職で、緊急に選挙が行われるという。
その夜、いつものファミレス。
「政治家なんてクソだよな」佐藤がビールを飲みながらつぶやく。
「結局、口先だけ」田中も同調する。
「だったら」響は、自分でも驚くほど冷静な声で言った。「俺が立候補してやるよ」
シーン。
テーブルが静まり返った。
「…え?」
「マジで?」
「本気で言ってる?」
三人の視線が響に集中する。
「ああ」響は頷いた。「あの藤堂って野郎に言われた通りだよ。文句があるなら立候補しろって」
第三章 選挙戦への第一歩
翌日、響は市役所に向かっていた。立候補の手続きについて調べるためだ。
「えーっと、供託金が三十万円…」
窓口の職員の説明を聞きながら、響は頭を抱えた。三十万円なんて大金、アルバイト生活の自分にはない。
「金、どうする?」
帰り道で山田が心配そうに聞く。
「なんとかする」
響は答えたものの、正直なところ途方に暮れていた。
しかし、その夜。
「響、本気なのか?」
佐藤が真剣な顔で聞いてきた。
「…ああ」
「だったら、俺たちも本気で支援する。供託金なら、みんなでカンパしよう」
田中も頷く。
「ハッキング…じゃなくて、ITスキルなら任せろ。選挙システムをハックするんじゃなく、合法的にネット選挙を駆使してやる」
山田も笑顔で言った。
「私、チラシのデザインとか得意だから!」
その瞬間、響は気づいた。自分一人の戦いじゃない。仲間たちも、同じように「声なき声」を抱えているのだ。
第四章 因縁の再会
選挙戦が始まって三日目。響は街頭で初めての演説を行っていた。
「えー…あの、皆さん」
緊張で声が震える。妨害するのは得意だが、自分が注目される側に回るのは初めてだった。
「僕は、今まで政治に絶望してきました。でも、諦めることをやめました」
少しずつ、聴衆が集まり始める。
「僕たちのような、普通の若者の声も、きちんと政治に反映されるべきだと思います」
そこに、見覚えのある男性が現れた。
藤堂慎一だった。
演説が終わった後、藤堂が近づいてくる。
「君が、あの時の…」
「ああ、覚えてるよ」響は身構えた。
しかし、藤堂の表情は思いのほか穏やかだった。
「立候補したんですね。素晴らしいことです」
「皮肉か?」
「いえ、本心です」藤堂は微笑んだ。「民主主義とは、こうやって多様な声が立ち上がることから始まるのですから」
響は戸惑った。敵だと思っていた相手からの、予想外の言葉だった。
第五章 カラスの変身
選挙戦が本格化すると、元カラスのメンバーたちは予想以上の活躍を見せた。
田中は、SNSを駆使して響の政策をわかりやすく発信。動画編集技術を活かして、プロ並みのPR動画を作成した。
佐藤は、これまでの妨害活動で培った街宣の経験を活かし、効果的な演説場所や時間帯をアドバイス。
山田は、デザイン力を発揮してポスターやチラシを制作。若者受けするキャッチコピーも考案した。
「『声なき声に、マイクを』——いいキャッチコピーでしょ?」
山田の提案に、響は思わず笑った。
「ああ、すごくいい」
彼らは、かつて政治を攻撃する側だったからこそ、一般市民の不満や期待を誰よりも理解していた。
第六章 本当に伝えたいこと
選挙戦も終盤。響は、ある夜、一人で演説の準備をしていた。
明日は最後の街頭演説。何を話そう?
「俺は何がしたいんだ?」
そんな時、スマホに一通のメッセージが届いた。差出人は、見知らぬアドレス。
『黒崎響様。私は無党派の一般市民です。あなたの演説を聞いて、初めて政治に興味を持ちました。若い人の率直な声が聞けて嬉しかったです。頑張ってください』
響の胸が熱くなった。
自分の声が、誰かに届いている。
その時、本当に伝えたいことが見えた気がした。
第七章 最後の演説
選挙戦最終日。響は、雨の中で最後の街頭演説を行っていた。
奇しくも、藤堂と初めて出会った時と同じ天気だった。
「皆さん、僕は政治のプロではありません」
響の声は、もう震えていなかった。
「でも、だからこそ言えることがあります。政治は、特別な人だけのものじゃない。僕たち一人一人のものです」
聴衆の中に、藤堂の姿があった。真剣な表情で響の話を聞いている。
「僕は、これまで政治に文句ばかり言ってきました。でも、文句を言うだけでは何も変わらない。大切なのは、自分たちで変えていくことです」
拍手が起こった。
「僕の仲間たちは、元々は選挙妨害をしていた連中です」
どよめきが起こる。
「でも、彼らも僕も、本当は社会を良くしたいと思っていました。ただ、その方法がわからなかっただけです」
響は、雨に濡れながら続けた。
「もし僕が当選したら、そんな『声なき声』をひとつでも多く、政治の場に届けたいと思います。ありがとうございました!」
エピローグ 新しいスタート
開票の夜。
「当選確実です!」
テレビのアナウンサーの声に、響たちの選挙事務所は歓声に包まれた。
僅差での勝利だったが、確実に勝っていた。
「やったな、響!」
仲間たちが涙を流して喜んでいる。
そこに、一人の男性が現れた。
藤堂慎一だった。
「おめでとうございます」
藤堂は、響に向かって深々と頭を下げた。
「あなたに言った言葉は正しかった。立派に立候補し、そして勝利を掴んだ」
「藤堂さん…」
「これからは同志として、一緒に地域のために頑張りましょう」
藤堂が差し出した手を、響は握った。
かつて敵同士だった二人が、今は同じ目標を向いている。
「ああ、よろしくお願いします」
響は答えた。外はまだ雨が降っていたが、その雨はもう、怒りの象徴ではなかった。
新しいスタートを告げる、希望の雨に見えた。
第一巻 完
「俺たちの声は、確実に誰かに届いている」
——黒崎響、初当選の夜のスピーチより——