デジタルの恋の設計図 ~First Love~
プロローグ 午前3時のデジタルダイブ
「よし、突破完了」
橘悠真は、モニターに表示された『ACCESS GRANTED』の文字を見て、小さくガッツポーズをした。三日かけて攻略した企業のセキュリティシステム。金庫の扉を開けたような達成感が胸に広がる。
悠真にとって、ハッキングは趣味であり、生きがいだった。大学にも行かず、バイトもしない。親の遺産で細々と生活しながら、ただひたすらにコンピューターの世界に没頭している。
「さて、何があるかな?」
データベースを覗き込む。顧客情報、売上データ、機密書類。どれも彼には興味がない。ただ「そこにあるから」アクセスしているだけだ。
そして、ある写真フォルダを開いた瞬間——悠真の時間が止まった。
一枚の写真。カフェのテラス席で微笑む女性。
「沢村碧…か」
ファイル名から彼女の名前がわかった。自然体で、まったく作り物めいていない笑顔。悠真はこれまで、こんな感情を味わったことがなかった。
胸の奥で、何かが激しく鼓動している。
「これが…恋?」
第一章 デジタル・ストーカーの誕生
翌日から、悠真の生活は一変した。
朝起きて最初にすることは、碧の情報収集。SNSのアカウント、オンラインショッピングの履歴、参加しているフォーラム。彼女のデジタルフットプリントを、まるで宝探しのように追いかけた。
「村上春樹が好き…クラシック音楽を聴く…毎週日曜日は動物保護のボランティア…」
断片的な情報が、徐々に一人の女性の人物像を描き出していく。
「『カフェ・セレニティ』によく行く…平日の午後2時から4時の間…」
悠真は、まるでプログラムを組むように、碧の行動パターンを分析していた。
しかし、ふと我に返る。
「俺、何やってるんだ…」
これは明らかにストーキングだった。しかも、相手は自分の存在すら知らない。こんなの、恋じゃない。
「でも…」
それでも、碧への気持ちは日に日に強くなっていく。
「実際に会ってみたい」
その想いは、ついに行動となって現れた。
第二章 リアル・アプローチ作戦
「よし、『偶然の出会い』プロジェクト、開始」
悠真は、まるで新しいプログラムを開発するように、碧との出会いをシミュレーションした。
最初のターゲットは『カフェ・セレニティ』。データによれば、碧が最も頻繁に訪れる場所だ。
初日、悠真は緊張で手が震えていた。人とまともに話すのは、コンビニの店員とのやり取りくらい。まして、好きになった女性となど…
「あの、すみません」
三日目にしてついに、碧に声をかけることができた。彼女が読んでいるのは『ノルウェイの森』。事前情報通りだ。
「村上春樹、お好きなんですね」
「あ、はい!大好きです」
碧の笑顔は、写真で見ていたものよりもずっと輝いて見えた。
「僕も読みます。よろしければ…お話を」
「いいですね!」
成功だった。悠真の心臓は、今にも破裂しそうなほど高鳴っていた。
第三章 バグだらけの恋愛プログラム
それから、悠真と碧は何度か「偶然」出会うようになった。
カフェで、図書館で、ボランティア活動の場で。悠真は事前に収集した情報をフル活用し、碧の興味を引く話題を提供した。
「悠真さんって、私と趣味がすごく合いますね!」
碧の嬉しそうな顔を見るたび、悠真は複雑な気持ちになった。これは偶然じゃない。すべて計算尽くだ。
しかし、実際に碧と話していると、データにはない彼女の魅力が無数に見つかった。話すときの手の動き、考え込むときの表情、笑うときの声の響き。
「データじゃわからないことって、こんなにあるんだな…」
同時に、自分の不器用さも痛感した。緊張で声が上ずったり、話題に困って沈黙が続いたり。コンピューターは完璧にコントロールできるのに、人間関係は全く思い通りにならない。
「人間には、デバッグが効かないのか…」
第四章 システムエラーとハートエラー
関係が深まるにつれ、悠真の罪悪感は増していった。
ある日、碧がぽつりとつぶやいた。
「最近、変なメールとか来るんです。もしかして、個人情報が流出してるのかな…」
悠真の血の気が引いた。自分のハッキングが原因かもしれない。
その夜、悠真は一睡もできなかった。このまま関係を続けることは、碧を騙し続けることだ。しかし、真実を話せば…
「嫌われる…当たり前だ」
翌日、碧から急に連絡が来た。
『悠真さん、今度の日曜日、時間ありますか?お話したいことがあって』
悠真の心臓が止まりそうになった。バレたのだろうか。
第五章 真実のデバッグ
約束の日曜日。いつものカフェで、碧は少し緊張した面持ちで座っていた。
「悠真さん、実は…」
碧が口を開こうとした瞬間、悠真が立ち上がった。
「碧さん、先に僕から話させてください」
「え?」
「僕は…ハッカーです」
碧の目が大きく見開かれた。
「僕たちの出会いは偶然じゃありません。僕があなたの写真を見て、勝手に惹かれて、あなたの個人情報を調べて、意図的に近づいたんです」
静寂が流れた。碧の顔から血の気が引いていく。
「最初は好奇心だけでした。でも、実際にあなたと話すうち、本当に…」
悠真の声が震えた。
「本当にあなたのことが好きになったんです。データじゃわからない、本当のあなたに」
涙が溢れそうになるのを必死に堪えて、悠真は続けた。
「僕のしたことは犯罪です。あなたのプライバシーを侵害しました。でも、これだけは信じてください。あなたへの気持ちに嘘はありません」
碧は、長い間黙っていた。
「私も…実は気づいてたんです」
「え?」
「あまりにも私のことを知りすぎてて。最初は偶然かと思ったけど…IT関係の仕事をしてる友達に相談したら、『それはハッキングの可能性がある』って」
悠真は愕然とした。
「でも」碧は続けた。「あなたと話してる時の表情や、緊張してる様子を見てると…悪い人じゃないって思えたんです」
第六章 新しいプログラムの始まり
「碧さん…」
「怒ってます。すごく怒ってます」碧ははっきりと言った。「でも、あなたが最後に見せてくれた涙は、きっと本物だと思います」
悠真は顔を上げた。
「一から始めませんか?今度は、お互いのことを正直に話しながら」
「いいんですか…?」
「条件があります」碧は真剣な表情で言った。「今後、絶対にハッキングはしないこと。そして、私のことで知りたいことがあったら、直接私に聞くこと」
悠真は力強く頷いた。
「約束します」
「じゃあ、改めて自己紹介しましょうか」碧が微笑んだ。「私、沢村碧です。趣味は読書と音楽鑑賞、あとボランティア活動」
「橘悠真です。趣味は…元ハッカーで、今は真面目にプログラマーになろうと思ってます」
二人は笑った。
エピローグ リブート完了
三ヶ月後。
悠真は、小さなソフトウェア会社でアルバイトを始めていた。ハッキングで培った技術を、今度は正当な方法で活かしている。
「お疲れ様!」
仕事帰りに碧が迎えに来た。今では週に二回、こうしてデートをしている。
「今日はどうだった?」
「新しいプロジェクトが始まってね。セキュリティシステムの構築なんだ」
「あら、ハッカーからシステム管理者に転職?」
「元ハッカーの知識が役に立つんだよ。攻撃する側の気持ちがわかるから、守る側の気持ちもわかる」
手をつないで歩きながら、悠真は思った。
人生も、恋も、プログラムみたいにはいかない。バグは出るし、エラーも起こる。でも、だからこそ面白い。
「碧さん」
「何?」
「君と出会えて、本当によかった」
「私も」碧が微笑む。「でも今度、私の友達にも紹介してくださいね。正式に」
「もちろん」
悠真は答えた。今度は、偽りのない本当の自分として。
デジタルの恋の設計図は、ついに完成した。ただし、その設計図は、悠真が一人で書いたものではない。碧と一緒に、一行ずつ、大切に書き上げたものだった。
「恋に、バグはつきものだ。大切なのは、一緒にデバッグしてくれる人がいること」
——橘悠真の日記より——