雨ニモマケズ ~現代の聖者~
第一章 田中さんという人
私たちの町に、田中健一という不思議な人がいた。年は五十を過ぎていただろうか。いつも同じ紺色の作業服を着て、自転車で町を巡回している。
「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」
田中さんは、どんな悪天候でも自転車を漕いでいた。台風の日も、雪の日も、彼の姿を見かけない日はなかった。町の人々は最初、彼を変わり者だと思っていた。
田中さんは小さなアパートに一人で住んでいた。部屋には必要最低限の物しかなく、食事も一日に玄米四合と味噌と少しの野菜だけ。現代にあって、まるで修行僧のような生活を送っていた。
「欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている」
近所の人々は彼をそう評していた。しかし、最初は誰も彼の本当の姿を知らなかった。
第二章 東の病気の子供
ある日、町の東側で小学生の男の子が白血病を患っているという話を聞いた。その子の両親は共働きで、病院への送迎に困っていた。
田中さんは黙って毎日、その子を自転車の後ろに乗せて病院まで送り迎えを始めた。雨の日は傘を差し、雪の日は毛布を用意して。
「田中さん、どうしてそこまで?」
母親が尋ねると、田中さんは静かに微笑んだ。
「東に病気の子供あれば、行って看病してやり」
彼は宮沢賢治の言葉を口ずさんだ。母親は涙を流した。
第三章 西の疲れた母
町の西側には、認知症の姑を一人で介護している女性がいた。夫は単身赴任で、彼女は心身ともに疲れ果てていた。
田中さんは週に三回、その家を訪れるようになった。姑の散歩に付き添い、女性が買い物に行く間、見守りを続けた。
「西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い」
現代の稲束は、重い介護の負担だった。田中さんは黙々とその一部を背負った。
第四章 南の死にそうな人
南の商店街で、一人暮らしの老人が倒れた。病院に運ばれたが、身寄りがないためお見舞いに来る人もいない。
田中さんは毎日病院を訪れた。老人の話を聞き、洗濯物を引き取り、必要な物を買い揃えた。
「南に死にそうな人あれば、行って怖がらなくてもいいと言い」
老人は最期まで、田中さんが手を握ってくれていることを知っていた。
第五章 北の喧嘩や訴訟
北の住宅地で、隣人同士の騒音トラブルが裁判沙汰になりそうだった。双方とも感情的になり、話し合いも不可能な状態だった。
田中さんは何度も両家を訪れた。一方的に責めるのではなく、ただ静かに話を聞いた。そして、少しずつ双方の気持ちを和らげていった。
「北の喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い」
最終的に、両家は和解した。田中さんの穏やかな人柄が、争いの火種を消したのだった。
第六章 日照りの時の涙
その年の夏は異常に暑く、町の農家は水不足に悩んでいた。田中さんは毎日、自転車で農家を回り、手伝いをした。
「日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き」
彼は農家の人々と一緒に空を見上げ、雨を待った。自分のことのように心配し、一緒に涙を流した。
第七章 みんなにでくのぼうと呼ばれ
町の人々は、田中さんを「でくのぼう」と呼ぶようになった。しかし、それは軽蔑ではなく、愛情のこもった呼び名だった。
「みんなにでくのぼうと呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず」
田中さんは決して見返りを求めなかった。感謝されても、無視されても、変わらずに人々のために尽くした。
第八章 そういう者に私はなりたい
私は新聞記者として、田中さんの活動を取材することになった。しかし、彼は取材を断った。
「私はただ、宮沢賢治さんの言葉を実践しているだけです」
田中さんは古い手帳を見せてくれた。そこには「雨ニモマケズ」の全文が、丁寧に書き写されていた。
「そういう者に私はなりたい」
手帳の最後に、彼の字でそう書かれていた。
終章 現代の聖者
田中さんは、現代の聖者だった。特別な能力があるわけでもなく、お金持ちでもない。ただ、人のために生きることを選んだ、普通の人だった。
今でも町のどこかで、田中さんは自転車を漕いでいる。雨の日も、風の日も、誰かのために。
私たちは彼を見るたびに思う。
「そういう者に私はなりたい」
宮沢賢治の理想は、現代でも生き続けている。田中さんのような人がいる限り、この世界にはまだ希望がある。
原作小説
- 原作小説名
- 〔雨ニモマケズ〕
- 原作作者
- 宮沢 賢治
- 青空文庫図書URL
- https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/card45630.html