母の櫛
おばさんが亡くなってから、もう十年が過ぎた。あの人の遺品を整理していると、小さな桐の箱が出てきた。中には、べっこうの櫛が一つ、静かに眠っている。
この櫛を見つめていると、幼い頃の記憶が蘇ってくる。おばさんは毎朝、この櫛で私の髪を梳いてくれた。あの細い指が、やさしく私の頭を撫でる感触を、今でも覚えている。
「坊や、じっとしていなさい。」
そう言いながら、おばさんは丁寧に私の髪を整えてくれた。櫛の歯が頭皮に触れる度に、くすぐったいような、心地よいような感覚があった。
あの頃の私は、なんて幸せだったのだろう。
朝の儀式
毎朝の髪梳きは、私たちにとって特別な時間だった。おばさんは決して急かすことなく、ゆっくりと櫛を通してくれた。
「この櫛はね、坊やのお母さんが使っていたものなのよ。」
ある日、おばさんがそう教えてくれた。私は振り返って、おばさんの顔を見上げた。
「お母さんの?」
「ええ、お母さんが嫁入りの時に持ってきた大切な櫛なの。今度は坊やが使う番よ。」
その時初めて、この櫛の重みを感じた。母が使っていた櫛で、おばさんが私の髪を梳いてくれる。見えない糸が、三人を結んでいるような気がした。
櫛の記憶
私が学校に通うようになっても、朝の髪梳きは続いた。級友たちが「男の子なのに髪を梳いてもらってる」と笑うこともあったが、私は気にしなかった。
おばさんとの静かな時間が、私には何より大切だった。
「坊や、今日はどんなことがあるかしら。」
櫛を通しながら、おばさんは私の一日を案じてくれた。そして夕方帰ると、
「今日はどうだった?」
と必ず聞いてくれた。私の小さな出来事を、おばさんは自分のことのように喜んだり、心配したりしてくれた。
別れの日
中学に上がる頃、私は反抗期を迎えた。朝の髪梳きを嫌がるようになった。
「もう子供じゃないんだから、自分でやる。」
そう言い放った私に、おばさんは悲しそうな顔をした。でも、何も言わずに櫛を私に渡してくれた。
「そうね、坊やももう大きくなったのね。」
その時のおばさんの表情を、私は一生忘れることができない。どれほど寂しかったことだろう。そして、私はどれほど大切なものを失ったことだろう。
今思えば、あの時が私たちの特別な時間の終わりだった。
おばさんの手紙
櫛の箱の底に、一通の手紙が入っていた。おばさんの字で、私宛に書かれている。
「坊やへ。この櫛を見つけた時、きっと私はもうこの世にいないでしょう。でも、心配しないで。この櫛が、私たちの思い出を繋いでくれるから。」
「あなたのお母さんは、とても美しい人でした。そして、あなたを心から愛していました。私も、あなたを我が子のように愛しました。」
「いつか、あなたにも大切な人ができた時、この櫛の意味が分かるでしょう。愛することの美しさを、きっと理解してくれるでしょう。」
手紙を読みながら、涙が止まらなかった。
新しい朝
それから私は、毎朝この櫛で髪を梳くようになった。おばさんがしてくれたように、ゆっくりと、丁寧に。
櫛を通すたびに、おばさんの声が聞こえてくる。
「坊や、今日も良い一日でありますように。」
そして、見たことのない母の面影も、この櫛を通して感じることができる。三人の愛情が、この小さな櫛に込められているのだ。
今、私には妻がいる。子供もいる。朝、子供の髪を梳いてやる時、おばさんの気持ちが痛いほど分かる。
愛することの美しさを、ようやく理解できるようになった。
継承
息子が反抗期を迎えて、髪を梳かれるのを嫌がるようになった。私は笑って、櫛を彼に渡した。
「そうか、もう大きくなったんだね。」
息子は戸惑いながら櫛を受け取った。
「この櫛はね、君のおばあちゃんが使っていたものなんだ。そして、お父さんが子供の頃、おばさんがこの櫛で髪を梳いてくれたんだよ。」
「今度は君が使う番だ。大切にしなさい。」
息子は小さくうなずいた。いつか、この櫛の意味を理解してくれるだろう。愛することの美しさを、きっと分かってくれるだろう。
櫛は、また新しい世代へと受け継がれていく。そこには変わらず、愛情という名の記憶が刻まれている。
おばさん、ありがとう。あなたの愛は、永遠に続いていきます。
原作小説
- 原作小説名
- 銀の匙
- 原作作者
- 中 勘助
- 青空文庫図書URL
- https://www.aozora.gr.jp/cards/001799/card56638.html