見えない影
昭和初期の東京。私立探偵の田村は、奇妙な事件の報告を受けていた。
「先生、本当に不思議なことが起こっているんです。」依頼人の中年男性、山田商事の専務取締役である山田氏は、震える手でハンカチを握りしめていた。
「落ち着いて、詳しく話してください。」田村は煙草に火をつけながら促した。
「我が社の金庫が、毎晩のように荒らされているんです。しかし、警備員は誰も見ていない。鍵も壊されていない。まるで透明人間の仕業としか思えないんです。」
田村の目が鋭く光った。透明怪人事件から数年が経っていたが、まだその恐怖は人々の記憶に新しかった。
現場検証
その夜、田村は山田商事のビルに忍び込んだ。三階にある金庫室は、厳重に施錠されていた。
「確かに、鍵に異常はない...」
田村は懐中電灯で室内を照らした。金庫の前には、わずかに足跡のようなものが残っていた。しかし、それは普通の足跡ではなかった。まるで濡れた足で歩いたような、かすかな水の跡だった。
「水...?」
その時、背後で微かな音がした。田村は振り返ったが、そこには誰もいない。しかし、確かに人の気配を感じた。
「誰だ!」
田村の声が暗闇に響いた。しかし、返事はない。ただ、冷たい風が頬を撫でていった。
謎の手がかり
翌日、田村は化学者の友人である博士を訪ねた。
「透明になる方法ですか?」博士は眼鏡を拭きながら考え込んだ。「理論上は不可能ではありませんが、以前の透明怪人事件のような完全な透明化は困難でしょう。」
「しかし、部分的な透明化や、特定の条件下での透明化なら?」
「ええ、それなら可能性があります。例えば、特殊な化学薬品を使った偽装や、光の屈折を利用した錯覚など...」
博士は古い研究資料を取り出した。「実は、戦時中に軍部で秘密裏に研究されていた技術があります。完全な透明化ではありませんが、水中でのみ透明になる薬品の開発が行われていました。」
「水中で...それで現場に水の跡が!」
正体発覚
その夜、田村は再び山田商事に潜入した。今度は、水を撒いた床に白い粉を混ぜておいた。
深夜二時過ぎ、金庫室に異変が起こった。空気が揺らぎ、まるで何かが動いているような気配がした。
「そこにいるのは分かっている!」
田村が叫ぶと、床の白い粉が足型を描いて移動していく。そして突然、人影がぼんやりと現れた。
「山田専務...あなたでしたか。」
現れたのは、依頼人である山田氏だった。彼の体は水に濡れており、特殊な薬品の臭いがしていた。
「どうして分かったんですか?」山田氏は観念したように肩を落とした。
「あなたが最初から犯人だったからです。透明怪人の恐怖を利用して、自分の横領を隠そうとした。しかし、完全な透明化は不可能。だから水中でのみ透明になる薬品を使い、現場に水を撒いて一時的に姿を消していたのです。」
真実の告白
山田氏は苦笑いを浮かべた。「さすが名探偵ですね。実は、戦時中に軍の研究所で働いていた科学者から、この薬品を手に入れていたのです。」
「会社の金を使い込んでしまい、返済に困っていました。透明怪人事件の記憶がまだ新しいうちに、同じような事件を起こせば、きっと超自然的な現象として処理されると思ったのです。」
「しかし、あなたの推理力を侮っていました。」
田村は深くため息をついた。「人間の欲望は、どんな科学技術よりも恐ろしいものですね。」
事件の終幕
山田氏は警察に自首し、横領の罪で逮捕された。特殊な薬品も証拠として押収された。
事件解決後、田村は一人事務所で事件を振り返っていた。
「透明怪人の恐怖は、まだ人々の心に根深く残っている。それを利用した犯罪...人間の心の闇の方が、よほど恐ろしいかもしれない。」
窓の外では、夜の東京が静かに眠っていた。しかし、田村は知っていた。この街の闇の中には、まだ多くの謎が潜んでいることを。
そして、真の透明怪人が再び現れる日が来るかもしれないことを...。
田村は煙草を消し、次の事件の資料に手を伸ばした。探偵の仕事に、休息はない。
原作小説
- 原作小説名
- 透明怪人
- 原作作者
- 江戸川 乱歩
- 青空文庫図書URL
- https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57229.html