三四郎 ～再び上野の森で～
第一章 十五年後の帰郷
小川三四郎が故郷の熊本を離れて東京に出てきてから、もう十五年が経とうとしていた。今では帝国大学の講師として、英文学を教えている。あの頃の青年らしい迷いは影を潜め、落ち着いた学者の風格を身につけていた。
しかし、時折ふと立ち止まることがある。美禰子のことを思い出すのだ。彼女はあの後、野々宮の兄と結婚し、今はどこかで幸せに暮らしているはずだった。
ある春の日、三四郎の元に故郷から電報が届いた。母が病気で倒れたというのだ。三四郎は急いで熊本へと向かった。
故郷の風景は変わらなかった。しかし、三四郎自身は大きく変わっていた。あの頃の純朴な青年は、今では都会の洗練を身につけた男性になっていた。
第二章 母の願い
母は思ったより元気だった。しかし、三四郎を見つめる眼差しには、深い憂いが宿っていた。
「三四郎、お前もう三十を過ぎたんだね」母は静かに言った。「まだ奥さんをもらわんのかい？」
「母さん、僕はまだ...」
「あのね、三四郎。隣村の田中さんのお嬢さんが、今度東京に出てくるんだって。看護婦になるために。その子、お前のことを覚えているって言ってたよ」
三四郎は複雑な気持ちになった。田中のお嬢さん——確か、みつ子という名前だった。子供の頃、よく一緒に遊んだ記憶がある。
「一度、会ってみてもいいかもしれませんね」
母の顔が明るくなった。
第三章 再会の約束
三四郎は一週間故郷に滞在した後、東京に戻った。母の病気は大したことはなかったが、彼女の言葉は心に残っていた。
それから一ヶ月後、三四郎の元に手紙が届いた。田中みつ子からだった。
「三四郎さん、お久しぶりです。覚えていらっしゃるでしょうか。私は来月、東京の病院で働くことになりました。もしご迷惑でなければ、一度お会いしていただけませんか」
三四郎は返事を書いた。会う場所として、なぜか上野の森を選んだ。あの頃の思い出の場所だった。
第四章 上野の森で
約束の日、三四郎は上野の森で待っていた。桜の季節は過ぎていたが、新緑が美しく輝いていた。
「三四郎さん？」
振り返ると、そこには清楚な和装の女性が立っていた。みつ子は美しい女性に成長していた。しかし、その美しさは美禰子とは全く違うものだった。飾り気のない、自然な美しさだった。
「みつ子さん、お久しぶりです」
二人は池のほとりを歩いた。みつ子は看護婦になる決意を語り、三四郎は東京での生活について話した。
「三四郎さんは、とても立派になられましたね」みつ子は微笑んだ。「でも、昔の優しさは変わらないようで安心しました」
第五章 新たな出会い
それからというもの、三四郎とみつ子は時々会うようになった。みつ子は聖路加病院で働き始め、三四郎は相変わらず大学で教えていた。
ある日、三四郎は美術館でみつ子と待ち合わせをしていた。しかし、そこで思わぬ人物に出会った。
「三四郎さん！」
振り返ると、そこには野々宮宗八が立っていた。あの頃より少し年を取ったが、相変わらず研究者らしい風貌だった。
「野々宮さん、お久しぶりです」
「君も変わったね。すっかり東京の人になって」野々宮は微笑んだ。「実は、兄がこの間亡くなったんだ。美禰子も今は一人で暮らしている」
三四郎の心臓が激しく鼓動した。
第六章 運命の再会
野々宮の話では、美禰子は夫の死後、子供たちと共に静かに暮らしているという。そして、なぜか三四郎のことを時々話題にするというのだ。
「一度、会ってみないか？」野々宮が提案した。
三四郎は迷った。みつ子との関係が深まりつつある今、美禰子に会うのは適切ではないかもしれない。
しかし、運命は三四郎を待ってはくれなかった。美術館の階段で、三四郎は美禰子と鉢合わせしてしまったのだ。
「三四郎さん？」
美禰子は以前と変わらず美しかった。しかし、その美しさには深い悲しみが宿っていた。
「美禰子さん...」
二人は言葉を失った。十五年の歳月が、一瞬で消え去ったような気がした。
第七章 二つの心
美禰子との再会は、三四郎の心を大きく揺さぶった。彼女は昔と変わらず魅力的で、そして昔と同じように謎めいていた。
一方、みつ子は三四郎の変化に気づいていた。しかし、彼女は何も言わなかった。ただ、いつものように優しく三四郎を見守っていた。
「三四郎さん、何かお悩みでも？」ある日、みつ子が尋ねた。
「いえ、何でもありません」三四郎は答えた。しかし、その声には確信がなかった。
みつ子は微笑んだ。「三四郎さん、私は待ちます。あなたが本当に心を決めるまで」
第八章 美禰子の告白
ある雨の日、三四郎は美禰子から手紙を受け取った。上野の森で会いたいという内容だった。
雨の中、三四郎は美禰子を待った。彼女は黒い洋傘をさして現れた。
「三四郎さん、私、あなたに謝らなければならないことがあります」美禰子は言った。「あの頃、私は若くて愚かでした。本当に大切なものが何かわからなかった」
「美禰子さん...」
「もし時間を戻せるなら、私はあなたを選んだでしょう。でも、今はもう遅すぎます。私には子供がいて、あなたには新しい人生があります」
美禰子は涙を流した。三四郎は何も言えなかった。
第九章 決断の時
美禰子との再会の後、三四郎は深く考えた。過去への憧れと、現在の幸せ。どちらを選ぶべきなのか。
みつ子は相変わらず優しく、そして忍耐強く待っていた。彼女の愛は美禰子のような激しさはなかったが、深く静かで、確かなものだった。
三四郎は気づいた。自分が求めていたのは、美禰子のような激しい恋ではなく、みつ子のような穏やかな愛だったのだ。
「みつ子さん」三四郎は言った。「僕と結婚してください」
みつ子は微笑んだ。「はい、三四郎さん。よろしくお願いします」
第十章 新しい人生
三四郎とみつ子の結婚式は、故郷の熊本で行われた。母は涙を流して喜んだ。
東京に戻った二人は、小さな家で新しい生活を始めた。みつ子は看護婦の仕事を続け、三四郎は相変わらず大学で教えていた。
美禰子からは時々手紙が届いた。子供たちの成長を報告し、三四郎の幸せを心から祝福する内容だった。
「三四郎さん、あなたが幸せで何よりです。私も子供たちと共に、新しい人生を歩んでいます」
第十一章 上野の森にて
結婚から三年後、三四郎とみつ子は上野の森を散歩していた。みつ子のお腹には、新しい命が宿っていた。
「三四郎さん、この場所で初めてお会いしたのは、運命だったのでしょうか」みつ子が尋ねた。
「そうかもしれませんね」三四郎は微笑んだ。「僕は長い間、違う道を歩いていたような気がします。でも、結局この場所で、本当の自分を見つけることができました」
池の水面に、桜の花びらが浮かんでいた。春が来たのだ。
エピローグ それから
三四郎は五十歳になった。みつ子との間には二人の子供がいた。長男の一郎と長女の花子。
ある日、一郎が尋ねた。「お父さん、どうして僕たちの名前は、そんなに普通なの？」
三四郎は笑った。「普通が一番いいんだよ。普通の中にこそ、本当の幸せがあるんだ」
みつ子も微笑んだ。「お父さんは、それを学ぶのに長い時間がかかったのよ」
夕日が上野の森を染めていた。三四郎は家族と共に、静かに歩いていた。青春の迷いは遠い昔のことになった。今は、確かな幸せがここにあった。
美禰子はその後、教育者として活躍し、多くの子供たちを育てた。彼女もまた、自分なりの幸せを見つけたのだった。
上野の森は、今日も多くの人々の人生を静かに見守っている。恋に迷い、愛に悩み、そして最終的に自分の道を見つける人々を。
終わり
原作小説
- 原作小説名
- 三四郎
- 原作作者
- 夏目 漱石
- 青空文庫図書URL
- https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card58842.html