その後の男
一
雨は止んでいた。
下人は羅生門の石段を降りながら、懐に隠した老婆の着物を確かめた。絹の感触が指先に冷たく、夜の闇の中でも鮮やかな朱色が浮かんで見えるようだった。
「これで当分は食いつなげる」
そう呟いてみたものの、足取りは重い。老婆から奪った着物は確かに値打ちものだが、それを金に換えるあてはない。第一、この乱世で着物を買う者がいるのか。
京の都は相変わらず荒れ果てていた。道端には餓死者の骸が転がり、野犬がそれを貪っている。下人は鼻を覆いながら、人気のない路地を縫って歩いた。
二
三日後、下人は河原で一人の僧侶と出会った。
僧侶は年若く、痩せ細った頬に深い皺を刻んでいた。破れた袈裟を身に纏い、托鉢の鉢を手にしている。だが、その眼差しには不思議な光があった。
「お前さんも、この世の辛さに疲れた者か」
僧侶は下人を見つめて言った。
「そんなところだ」
下人は警戒しながら答えた。この僧侶が何者なのか、何を求めているのか分からない。
「この着物、どこで手に入れた?」
僧侶は下人の懐を見透かすように言った。下人は驚いて身を引いた。
「知らぬ」
「嘘をついてはいけない。その着物には、まだ死者の念が宿っている」
三
僧侶の言葉に、下人は羅生門での出来事を思い出した。
あの夜、老婆が死人の髪を抜いているのを見た時の嫌悪感。だが、老婆の言葉を聞いているうちに、自分の中で何かが変わった。善悪など、所詮は腹を満たすための方便に過ぎない。生きるためには、どんな手段でも使うべきなのだ。
「その通りだ。俺は盗人になった」
下人は開き直って言った。
「だが、それがどうした。この世で正直に生きていては、餓死するだけだ」
僧侶は悲しそうに首を振った。
「お前さんの心は既に死んでいる。生きているのは肉体だけだ」
「綺麗事を言うな。お前だって托鉢で人の情けにすがって生きているではないか」
「そうだ。だが、私は人の善意を信じている。お前さんは人の悪意しか信じていない」
四
僧侶の言葉は下人の胸に刺さった。
あの夜から、下人は確かに変わった。人を見れば、どう騙してやろうか、どう利用してやろうかと考えるようになった。信用できるのは自分だけ。他人は皆、敵だった。
だが、この僧侶の前では、なぜか心が落ち着かない。
「お前は何者だ」
「ただの旅の僧だ。この都で供養をしている」
「供養?」
「羅生門で死んだ者たちの」
下人は凍りついた。
「あそこで死んだ者たちは、皆、この世に未練を残している。恨みを、悲しみを、そして絶望を」
僧侶は続けた。
「お前さんがあの夜出会った老婆も、その一人だ」
五
「老婆は死んでいるのか」
「とうに死んでいる。お前さんが出会ったのは、彼女の怨念だ」
下人は震えた。あの夜の記憶が蘇る。老婆の干からびた手、濁った目、そして髪を抜く音。
「なぜ、俺に教える」
「お前さんを救いたいからだ」
「救う?」
「お前さんの魂を」
僧侶は立ち上がった。
「その着物を返しなさい。そして、羅生門で供養をしなさい。そうすれば、お前さんの心に平安が訪れるだろう」
下人は懐の着物を握りしめた。これが偽物だとしても、今の自分にはこれしかない。
「断る」
「そうか」
僧侶は悲しそうに微笑んだ。
「では、お前さんもいずれあの門で朽ち果てることになるだろう」
六
僧侶が去った後、下人は一人で河原に座り込んだ。
夕日が西に沈み、都に夜の帳が下りる。どこからともなく、死者の呻き声が聞こえてくるようだった。
下人は着物を取り出し、見つめた。朱色の絹は、血のように赤く見えた。
「これが本物だろうと偽物だろうと、俺には関係ない」
そう呟いたが、声は震えていた。
僧侶の言葉が頭から離れない。老婆の怨念、羅生門の呪い、そして自分の運命。
立ち上がった下人は、着物を懐に戻した。そして、羅生門の方角を見つめた。
遠くに見える門の影は、巨大な口を開けて自分を待っているようだった。
「行くか」
下人は呟いた。
「もう一度、あの門へ」
夜闇の中、下人の姿は次第に小さくなっていった。そして、二度と誰にも見られることはなかった。
終
羅生門では今夜も、死者たちが髪を抜き続けている。
生者の欲望と、死者の怨念が渦巻く中で。
(了)
原作小説
- 原作小説名
- 羅生門
- 原作作者
- 芥川 竜之介
- 青空文庫図書URL
- https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card128.html