吾輩は猫である ~田中青年と宝物語~
第一話 吾輩と新しい住人
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
さて、我が主人の家に居候をしてから、もう随分と月日が経つ。主人は相変わらず無沙汰で、美学だの哲学だのと訳の分からぬ事を考えては、首をひねっておる。吾輩から見れば、そんな事より魚の一匹でも持って来てくれる方が、よほど実用的だと思うのだが、人間というものは実に奇妙な生き物である。
ところが、つい先日の事、我が家に一人の青年が転がり込んできた。名前を田中太郎というらしい。聞くところによると、主人の遠い親戚の子で、東京の学校に通うために下宿を探していたのだという。主人の奥さんは、情に厚い人だから、二つ返事で引き受けてしまった。
この田中太郎という青年が、なかなか面白い人物なのである。
まず第一に、吾輩を見るなり、「おお、立派な猫だ!」と声を上げた。吾輩の美しさを理解する眼力の持ち主である。これは好感が持てる。
第二に、この青年は書生らしからぬ事に、非常に行動的である。朝早くから起きて庭を掃除したり、主人の書斎の整理を手伝ったりする。主人などは、朝の十時頃までぐうぐう寝ているというのに、実に感心な事である。
第三に、そして最も重要な事だが、この青年は吾輩に餌をくれるのである。それも、ただの残り物ではない。わざわざ魚屋に行って、新鮮な鯵を買って来てくれるのだ。こんな心優しい人間は、吾輩の生涯でも初めてである。
第二話 不可解な事件
田中青年が我が家に来てから一週間ほど経った頃、不可解な事件が起こった。
その日は、いつものように午後の陽だまりで昼寝をしていた吾輩であったが、ふと目を覚ますと、庭の隅に見慣れぬ穴が掘られているのを発見した。
「これは奇妙だ」と吾輩は思った。昨日まではそんな穴は無かったはずである。
その夜、吾輩は密かに調査を開始した。月明かりの下、庭の隅で何やら怪しげな影がうごめいているのを発見したのである。
よく見ると、それは田中青年であった。青年は手に小さなスコップを持ち、せっせと土を掘っている。
「何をしているのだろう」と吾輩は首をかしげた。
翌朝、吾輩はその穴を詳しく調べてみた。すると、土の中から小さな布の包みが出てきた。中には、きれいに磨かれた古い硬貨が入っている。
「これは何だろう」と吾輩が考えていると、田中青年がやって来た。
「あ、君も見つけたのか」青年は苦笑いを浮かべて言った。「実は、この家の庭のどこかに、先代の主人が宝物を埋めたという話を聞いたんだ。毎晩少しずつ探していたんだが、ついに見つけたよ」
吾輩は「ニャー」と返事をした。これは「なるほど、そういう事だったのか」という意味である。
第三話 猫の推理
ところが、この宝探しの話には、まだ続きがあった。
田中青年が見つけた硬貨は、どうやら江戸時代の大判らしく、骨董品としても相当な価値があるという。青年は正直に主人にこの事を報告した。
主人は最初、「そんな話は聞いた事がない」と言っていたが、古い文献を調べてみると、確かに先代が何かを庭に埋めたという記録が出てきた。
「しかし」と主人は首をひねった。「記録では、埋めた場所は庭の真ん中のはずなのだが」
そこで吾輩の出番である。
実は、吾輩は日頃から庭の隅々まで調べ回っている。その結果、庭の真ん中には確かに不自然な盛り上がりがある事を知っていた。
吾輩は田中青年の袖を引っ張って、その場所まで案内した。青年は最初きょとんとしていたが、やがて吾輩の意図を理解し、そこを掘り始めた。
すると、どうだろう。今度は立派な桐の箱が出てきたのである。中には、美しい蒔絵の施された硯箱と、古い巻物が入っていた。
巻物を開いてみると、それは有名な書家の書いた掛け軸であった。これは大判以上の価値があるという。
「君のおかげだ」田中青年は吾輩の頭を撫でながら言った。「君がいなければ、本当の宝物は見つけられなかった」
吾輩は得意になって胸を張った。「ニャー」と鳴いて見せた。これは「当然である」という意味である。
第四話 新しい友達
この宝物発見の一件で、吾輩と田中青年はすっかり親しくなった。青年は毎日吾輩と庭を散歩し、時には勉強の合間に吾輩の相手をしてくれるようになった。
ある日の事、田中青年が一匹の子猫を連れて帰って来た。
「道端で鳴いていたんだ」青年は主人に説明した。「放っておけなくて」
その子猫は、まだ目も開いたばかりの、とても小さな黒猫であった。
最初、吾輩は面白くなかった。今まで一匹で王様のような暮らしをしていたのに、新参者が来るとは何事かと思ったのである。
しかし、その子猫があまりにも小さく、一人では何も出来ない様子を見ているうちに、吾輩の心境にも変化が生じた。
「仕方がない」と吾輩は思った。「面倒を見てやろう」
吾輩は子猫にミルクの飲み方を教え、暖かい場所で眠る方法を教えた。子猫は吾輩を兄貴分のように慕うようになった。
田中青年は、この様子を見て大変喜んだ。「君は本当に心優しい猫だね」と言ってくれた。
吾輩は照れくさかったが、悪い気はしなかった。
第五話 春の訪れ
やがて春が来た。桜の花が咲き、庭には菜の花が黄色い絨毯を敷いたようになった。
田中青年は学校にも慣れ、我が家での生活も板についてきた。子猫の方も、すっかり大きくなって、吾輩の後を追いかけ回すようになった。
「チビ」と吾輩は子猫を呼んでいる。これは吾輩が勝手につけた名前である。
主人は相変わらず哲学や美学の事ばかり考えているが、最近は田中青年と議論をする事が多くなった。青年は主人よりもずっと実用的な考えを持っているので、なかなか面白い対話になる。
奥さんは、家族が増えて忙しくなったが、とても楽しそうである。特に、チビが膝の上で眠っている時などは、本当に幸せそうな顔をしている。
こうして、我が家には平和で賑やかな日々が続いている。
吾輩は思う。人間というものは、一人でいる時よりも、誰かと一緒にいる時の方が、ずっと輝いて見える。それは猫も同じかもしれない。
チビが来てから、吾輩の毎日はより楽しくなった。一人で昼寝をするのも良いが、二匹で日向ぼっこをするのも悪くない。
田中青年は、きっといつか我が家を出て行くだろう。それが人間の世界の決まりである。しかし、それまでの間、吾輩は彼と過ごす時間を大切にしたいと思う。
そして、チビには、この家で愛されて育つ幸せを味わってもらいたい。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。しかし、愛する家族がいる。それだけで十分である。
原作小説
- 原作小説名
- 吾輩は猫である
- 原作作者
- 夏目 漱石
- 青空文庫図書URL
- https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card789.html