心の距離 - 現代に響く友情と恋愛の物語
こころ - 現代版
第一章 出会い
僕が田中教授と出会ったのは、大学三年の春だった。
文学部の講義棟の前で、一人のベンチに座っている中年の男性を見かけた。スマートフォンを見ることもなく、ただ桜の花びらが舞い散るのを眺めている。その佇まいには、現代の忙しない社会から切り離されたような、静謐な雰囲気があった。
「田中先生ではありませんか」
声をかけると、その人は振り返った。確かに、僕が昨年まで受講していた近代文学の講義を担当していた田中教授だった。
「君は...確か山田君だったね」
教授は穏やかに微笑んだ。僕は意外だった。百人以上の学生を相手にする講義で、僕のような平凡な学生の名前を覚えていてくれるとは思わなかった。
「はい。先生の講義、とても印象に残っています」
「そうか。君は真面目に聞いてくれていたからね」
それから僕たちは、時々キャンパスで言葉を交わすようになった。教授は僕を「君」と呼び、僕は「先生」と呼んだ。現代では珍しいほど、古風で丁寧な関係だった。
第二章 親しくなる
夏休みが明けて、僕は再び教授の講義を受講することにした。今度は少人数のゼミナールだった。
「今日は夏目漱石の『こころ』について議論しよう」
教授がそう言った時、僕の心は震えた。偶然にも、夏休み中に読み返していた作品だったからだ。
「山田君、君はどう思う?」
突然指名され、僕は慌てた。しかし、教授の優しい眼差しに励まされ、思い切って発言した。
「『先生』という人物は、現代でも存在するような気がします。SNSで繋がっているように見えて、実は誰とも真につながっていない...そんな現代人の孤独感と重なる部分があるのではないでしょうか」
教授は深くうなずいた。
「興味深い視点だね。確かに、人間の本質的な孤独感は、時代を超えて存在する」
ゼミが終わった後、教授は僕に声をかけた。
「君とはもっと深く話してみたい。今度、研究室に来てくれないか」
第三章 研究室にて
田中教授の研究室は、古い本に囲まれた静かな空間だった。コーヒーを淹れながら、教授は話し始めた。
「君は文学に真剣に向き合っている。最近の学生には珍しいことだ」
「先生こそ、学生一人一人をよく見ていらっしゃる」
「そうせずにはいられないのだよ。教育とは、人間と人間の関係だからね」
僕は教授の言葉に感動した。現代の大学では、効率や成果ばかりが重視される。しかし、この人は違った。
「先生、僕は将来について迷っています」
「どんなことで?」
「就職活動が始まるのですが、本当にやりたいことが見つからないんです」
教授は窓の外を見つめた。
「君はまだ若い。焦る必要はない。大切なのは、自分の心に正直でいることだ」
それから僕は、週に一度は教授の研究室を訪れるようになった。文学の話、人生の話、様々なことを語り合った。
第四章 友人
ゼミには、僕と同じように教授を慕う学生がいた。佐藤健太という男だった。
健太は僕とは対照的だった。明るく、積極的で、女性にもモテる。就職活動も順調に進んでいるようだった。
「山田、君も田中先生のファンなんだね」
健太は親しみやすい笑顔で話しかけてきた。
「まあ、そうですね」
「僕も先生を尊敬してるんだ。こんな時代だからこそ、ああいう人が必要だと思う」
僕たちは自然と親しくなった。健太は僕にない魅力を持っていた。しかし、時々、彼の中に何か影のようなものを感じることがあった。
第五章 恋
春が来て、僕は一人の女性に恋をした。
文学部の一年生、田村美咲さんだった。図書館でよく見かける、静かで知的な女性だった。
ある日、勇気を出して声をかけた。
「あの、いつも文学書を読まれているようですが...」
「はい。夏目漱石が好きなんです」
その言葉に、僕の心は躍った。
僕たちは時々、カフェで文学について語り合うようになった。美咲さんは僕の話を真剣に聞いてくれた。
「山田さんは、とても深く考える人ですね」
「そんなことないです。ただ、本を読むのが好きなだけで」
「でも、それって大切なことだと思います」
僕は美咲さんといる時間が何よりも幸せだった。
第六章 複雑な心
しかし、ある日、衝撃的な事実を知った。
健太も美咲さんに恋をしていたのだ。
「実は、僕も田村さんが気になってるんだ」
健太は僕にそう打ち明けた。
「そうなんですか...」
僕は動揺を隠そうとした。
「君はどう思う?彼女のこと」
「僕も...好きです」
正直に答えるしかなかった。
健太は複雑な表情を浮かべた。
「そうか。でも、君は僕の大切な友人だ。この件で友情に亀裂が入るようなことは避けたい」
「僕もです」
しかし、心の奥で、僕は健太への複雑な感情を抱いていた。友情と恋愛の間で、揺れ動く心があった。
第七章 告白
健太は僕より先に行動を起こした。
「田村さんに告白するつもりなんだ」
「そうですか...」
「君には申し訳ないけど、僕は正直でいたい」
僕は何も言えなかった。健太の方が積極的で、魅力的だった。美咲さんも、きっと彼を選ぶだろう。
しかし、予想に反して、美咲さんは健太の告白を断った。
「佐藤さんは素敵な方だけど、私は友達として付き合いたいんです」
健太は落ち込んでいた。
「山田、君はどうする?」
「僕は...」
僕は迷っていた。親友が振られた直後に、自分が告白するのは正しいことなのか。
第八章 教授の助言
悩んだ僕は、田中教授に相談した。
「先生、人間関係で悩んでいます」
「どんなことだい?」
僕は事情を話した。教授は静かに聞いていた。
「君は優しい青年だね。友人への配慮も大切だが、自分の心に嘘をつくのも良くない」
「どうすればいいのでしょうか」
「正直でいることだ。ただし、相手の気持ちを十分に考えて行動することも忘れずに」
教授の言葉は、いつものように深く心に響いた。
第九章 決断
僕は美咲さんに告白することにした。
「田村さん、お話があります」
カフェで、僕は勇気を振り絞って言った。
「私のことを好きでいてくれるなら、とても嬉しいです」
美咲さんは微笑んだ。
「でも、今は恋愛よりも、自分の勉強に集中したいんです」
「そうですか...」
「山田さんのことは、大切な友達だと思っています」
僕も振られた。しかし、不思議と清々しい気持ちだった。
第十章 友情
健太と僕は、共に振られた者同士として、より深い友情を育んだ。
「山田、君は正直だった。僕は君を尊敬するよ」
「健太さんも、誠実に行動した。僕こそ、あなたを尊敬しています」
僕たちは互いの誠実さを認め合った。
しかし、心の奥底では、複雑な感情が渦巻いていた。友情と恋愛、嫉妬と尊敬、様々な感情が交錯していた。
第十一章 卒業
四年生の春、僕たちは卒業を迎えた。
田中教授は最後の講義で言った。
「君たちは、これから社会に出る。そこで様々な人間関係に直面するだろう。大切なのは、自分の心に正直でいることだ」
僕はその言葉を胸に刻んだ。
第十二章 その後
卒業後、僕は出版社に就職した。健太は大手商社に入った。美咲さんは大学院に進学した。
時々、僕は田中教授の研究室を訪れる。教授は変わらず、穏やかに僕を迎えてくれる。
「君は成長したね」
「先生のおかげです」
「そうではない。君自身の努力だ」
僕は今でも、あの頃の複雑な感情を思い出す。友情と恋愛の狭間で揺れ動いた心。人間関係の複雑さ。
しかし、それらすべてが、今の僕を形作っているのだと思う。
エピローグ
現代という時代は、人と人との距離を縮めるツールに溢れている。しかし、それでも人間の心の奥底にある孤独感は変わらない。
僕は今、一人の部屋で、夏目漱石の『こころ』を読み返している。そして、田中教授の言葉を思い出す。
「大切なのは、自分の心に正直でいることだ」
その言葉は、今も僕の心に響いている。
人間の心は複雑だ。友情、恋愛、嫉妬、尊敬...様々な感情が交錯する。しかし、それこそが人間らしさなのかもしれない。
僕は今日も、自分の心と向き合っている。
―終―
原作小説
- 原作小説名
- こころ
- 原作作者
- 夏目 漱石
- 青空文庫図書URL
- https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card773.html