女生徒、薄明の思索
あさ、眼を覚ますときのあの奇妙な感覚は、今日も私を捕らえて離さなかった。箱を開ければまた箱、その中にまた箱。七つも八つも開けて、とうとう最後に空っぽのサイコロが出てくるような、あの徒労感にも似た、しかしどこか期待に満ちた微睡み。パチッと目覚めるなど、あれは嘘だ。濁りが澱のように沈み、ようやく上澄みがでるように、私は疲れて眼を覚ます。朝はいつも、しらじらしい灰色の虚無が私を包み込む。胸には、昨日までの醜い後悔がどっと押し寄せ、身悶えしそうになる。
「お父さん」と小さな声で呼んでみる。誰もいない部屋にその声は溶け、へんに気恥ずかしく、しかし同時に温かいものが胸に広がる。よいしょ、と掛け声をして蒲団を畳む自分が、まるでどこかのお婆さんのようで、思わず顔が熱くなる。こんなげびた言葉を、まさか自分が発するとは。私の内側には、まだ見知らぬ私が潜んでいるのだろうか。鏡の前の私は、眼鏡を外せば少しぼやけて、かえってしっとりと見える。眼鏡は嫌いだ。顔から生まれるあらゆる情緒、ロマンチック、美しさ、激しさ、弱さ、あどけなさ、哀愁。それら全てを眼鏡は遮ってしまう。目でお話をするなんて、可笑しいくらいに出来ないのだ。眼鏡は、お化けだ。しかし、眼鏡越しの世界は、汚いものを隠し、ただ大きなものだけを鮮明に、夢のように見せてくれる。人も皆、優しく、きれいに、笑って見える。そんな時の私は、きっと人にもお人好しに見えるだろう。そう思うと、心は優しく、そして甘えたくなるのだ。
偶然の出会い
いつも通る神社の森の小路。私だけが見つけた、ささやかな近道だ。今日も労働者たちのいやらしい言葉から逃れるように、私はこの暗い森の中を選んだ。足元の麦が、今年も兵隊さんの馬桶からこぼれて生えたのだろうか。ひょろひょろと頼りなく育ち、しかしこの森の暗闇の中では、それ以上育つこともない。可哀そうに、これだけ育って死んでしまうのだろう、と考える。そんな折、ふと、道の脇に落ちている小さな木彫りの鳥を見つけた。手のひらに収まるほどの大きさで、素朴ながらも丁寧に彫られている。誰かの落とし物だろうか。拾い上げ、埃をそっと払う。冷たい木肌が、私の中で微かな温かさを持つ。
それから数日、私はその木彫りの鳥を鞄の奥に忍ばせて持ち歩いた。誰に話すでもなく、ただ時折、こっそりと取り出して眺める。電車の中で、いつも通り雑誌をパラパラと繰りながら、ふと、その鳥に視線を落とした。すると、向かいの席に座る、どこか思索家のような顔をした植木屋さんの目が、私の手元の鳥に一瞬、向けられたような気がした。彼の目は、黒い肌に引き締まって見え、意志の強さを感じさせる。私は咄嗟に鳥を隠したが、彼の視線は既に別の場所へ移っていた。
その日以来、私は不思議と、あの木彫りの鳥を肌身離さず持つようになった。それは、私の日々の思索の片隅に、微かな、しかし確かな、小さな光を灯す存在となったのだ。誰にも知られない、私だけの秘密の宝物。今日もまた、空っぽの箱を開けるような朝が来るだろう。しかし、その箱の奥底に、もしかしたら、もう一つの小さな木彫りの鳥が隠されているのかもしれない、と、そんな淡い期待を抱きながら、私は静かに目を開けるのだった。
原作小説
- 原作小説名
- 女生徒
- 原作作者
- 太宰 治
- 青空文庫図書URL
- https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card275.html