虎の夢、人の心
李徴は、再び夢を見た。それは、虎となり果てた己の姿ではなく、かつて詩を吟じ、友と語らった、人間の李徴の夢だった。しかし、その夢は、現実の苦しみと同じくらい、彼を苛んだ。
第一夜:詩人の残滓
夢の中で、李徴は書斎にいた。机には、書きかけの詩が広げられ、墨の香りが微かに漂う。友人が訪れ、共に酒を酌み交わし、詩論を戦わせる。その声は、かつての自分の声であり、友の声であった。しかし、その声は、どこか遠く、霞がかかったように聞こえる。私は、本当にあの李徴だったのか? 虎となった今の自分には、その記憶が、まるで他人の物語のように感じられた。詩を愛し、人との交わりを尊んだあの頃の自分が、まるで幻のように消え去ろうとしている。その喪失感が、胸を締め付けた。
第二夜:家族の幻影
次に見た夢は、妻と子の姿だった。幼い子が、無邪気に笑い、妻が優しく見守る。温かい食卓を囲み、ささやかな幸せを分かち合う。それは、虎となって以来、決して見ることのできなかった光景だった。夢の中の彼らは、私を恐れることなく、ただ愛おしそうに見つめている。私は、彼らに触れようと手を伸ばす。しかし、その手は、無情にも空を切る。目が覚めると、そこは冷たい岩の上だった。家族の温もりは、ただの幻。私は、彼らを置き去りにした罪悪感に苛まれ、咆哮を上げた。
第三夜:虎の慟哭
夢の中で、私は再び虎となった。しかし、それは、飢えに駆られ、本能のままに獲物を追いかける虎ではなかった。私は、月に向かって咆哮していた。その声は、虎の咆哮でありながら、どこか人間の悲しみを帯びていた。なぜ、私は虎となったのか。なぜ、私は人間であることを捨てたのか。その問いは、答えのないまま、私の魂を深く抉る。私は、人間としての尊厳を失い、獣の姿になったことを、心の底から悔やんでいた。しかし、もう戻ることはできない。その絶望が、私の全身を駆け巡った。
第四夜:友との再会、そして別れ
夢の最後に、私は袁傪と再会した。彼は、かつてのように私を友として扱い、私の言葉に耳を傾けてくれる。私は、虎の姿のまま、彼に詩を語り、私の苦しみを訴えた。袁傪は、静かに私の話を聞き、涙を流した。その涙は、私の心に、人間としての温かさを呼び戻した。しかし、夜が明け、夢から覚める時が来た。私は、袁傪に別れを告げた。再び、人間として彼と会うことはないだろう。私は、虎として生きる運命を受け入れるしかなかった。
第五夜:覚醒、そして未来へ
夢から覚めた李徴は、深い疲労感と共に、しかし、どこか清々しい気持ちでいた。夢の中で見た人間の記憶は、彼を苦しめたと同時に、彼の中に残された人間性を再認識させた。私は、虎である。しかし、私の心には、まだ詩人の血が流れ、家族を思う心が残っている。私は、この虎の体で、何ができるだろうか。咆哮を上げ、獲物を追いかけるだけではない、何か。李徴は、月を見上げた。満月は、彼の心に、新たな問いを投げかけていた。私は、この虎の体で、何を為すべきか。答えはまだ見つからない。しかし、李徴は、もう迷わない。彼は、虎としての生を受け入れ、その中に人間としての意味を見出すことを決意した。彼の物語は、まだ終わらない。虎の咆哮は、新たな始まりの合図だった。
原作小説
- 原作小説名
- 山月記
- 原作作者
- 中島 敦
- 青空文庫図書URL
- https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/card623.html