心の光
えたいの知れない不吉な塊が、私の心を始終圧えつけていた。焦燥と嫌悪、まるで二日酔いのような、しかし終わりの見えない倦怠感が私を支配していた。肺尖カタルや神経衰弱、焼き付くような借金。それらもまた私を苦しめるが、一番いけないのは、この心の奥底に巣食う不吉な塊なのだ。
かつて私を喜ばせた音楽も、詩の一節も、今はただ耳障りな雑音に過ぎない。蓄音器の前に座っても、二三小節で立ち上がりたくなる。何かが私を居たまらずさせ、私はただ街から街を浮浪し続けるしかなかった。
見すぼらしい美しさ
その頃、私は見すぼらしくて美しいものに強く惹かれた。壊れかかった街並み、路地の奥にひっそりと咲く花、古びた書物の匂い。そういったものの中に、私はかすかな安らぎを見出そうとしていた。しかし、それも長くは続かない。心の奥底の不吉な塊は、常に私を捕らえ、逃がそうとはしなかった。
ある日、私はいつものように街をさまよい、丸善にたどり着いた。しかし、そこでも私の心は満たされない。画集を眺めても、画材を見ても、何も響かない。私はただ、無目的に店内をさまよった。その時、ふと、果物売り場に目が留まった。そこに、ひときわ鮮やかな黄色い光を放つものがあった。檸檬だ。
私はその檸檬を手に取った。ひんやりとした重み、ざらりとした皮の感触、そして、鼻腔をくすぐる爽やかな香り。その瞬間、私の心の不吉な塊が、わずかに揺らいだ気がした。私はその檸檬を、そっと懐に忍ばせた。
爆弾
私は再び街をさまよった。しかし、今度は違った。懐の檸檬が、私に不思議な力を与えているようだった。私は、いつものように美術品売り場にたどり着いた。そこには、高価な美術品が所狭しと並べられている。私は、その美術品の一つ一つを、まるで爆弾を仕掛けるかのように、注意深く見つめた。
私はその檸檬を、そっと積み上げられた画集の上に置いた。それはまるで、黄金色に輝く恐ろしい爆弾のようだった。もし十分後には、丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだとしたら、どんなに面白いだろうと私は想像した。
私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」と私はそう呟き、京極を下って行った。活動写真の看板絵が奇体な趣きで街を彩っている中、私の心は少しだけ軽くなっていた。あの檸檬は、私の心に仕掛けられた、小さな、しかし確かな希望の爆弾だったのかもしれない。
原作小説
- 原作小説名
- 檸檬
- 原作作者
- 梶井 基次郎
- 青空文庫図書URL
- https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/card46349.html