愛を綴じた、静寂の檻
あらすじ
幼なじみの結衣のために何でもしてきた栞。しかし献身が彼女を傲慢にしてしまったと気づく。彼女を変えるため、栞は突然完全な無視を始める。言葉を交わさず、ただ沈黙で別れを告げる。歪んだ愛と自立を描く、切ない青春物語。
第一章「彼女の隣で、私は透明になる」
九月一日。
始業式の朝、教室の窓際に座る私は、読みかけの文庫本に目を落としていた。
「ねえ、栞」
聞き慣れた声が響く。
「喉乾いた。自販機で桃のジュース買ってきて。お財布、バッグに入ってるから」
ページをめくる。活字が静かに流れていく。
「……栞?」
少し語気が強くなる。でも、私の視線は本から動かない。
「ちょっと、聞いてる? 栞!」
声が大きくなった。周囲の視線が集まる気配がする。でも、私は本を読み続ける。ただ、それだけ。
「何なのよ、いきなり! 無視?」
結衣の怒声が教室に響いた。
私の隣の席で、彼女が椅子を蹴って立ち上がる音がした。でも、私は本を読んでいる。ページをめくる指先が、ほんの少しだけ震えていることに、誰も気づかない。
気づいてはいけない。
これは、私が彼女にできる、最後で最高の優しさなのだから。
第二章「女王様の献身者」
思えば、全てはあの日から始まっていた。
幼稚園の砂場で、泣いている女の子を見つけた日。
「お城、壊れちゃった……」
膝を抱えて泣く彼女の横で、私は黙々と砂を集めた。小さな手で何度も何度も砂を運び、お城を作り直した。
「わあ、すごい! ありがとう!」
結衣が笑った。太陽みたいに眩しい笑顔だった。
その日から、私は結衣の「何でも屋さん」になった。彼女が困っていたら助ける、欲しいものがあれば持ってくる、嫌なことがあれば代わりにやってあげる。
小学生になっても、中学生になっても、その関係は変わらなかった。いや、変わったのは結衣の態度だけ。
「栞、宿題見せて」
「栞、あれ買ってきて」
「栞、私の機嫌直して」
感謝の言葉は、いつの間にか消えていた。
高校受験の時、結衣は私に泣きついた。
「お願い、栞。一緒の高校に行きたいの。あなたがいないと、私、やっていけないから」
私の偏差値なら、県内トップクラスの進学校に行けた。でも、結衣が選んだのは偏差値50の普通科高校。
私は迷わず、結衣と同じ学校を選んだ。
担任は呆れた顔をした。両親は悲しそうな目をした。
でも、結衣が笑ってくれるなら、それで良かった。
ずっと、それで良かったはずだった。
第三章「歪んだ愛の終着点」
高校二年の夏休み。
午前二時、スマホが震えた。
『栞、起きてる? 今すぐコンビニでアイス買ってきて。チョコミント。今、食べたい気分なの』
私は布団から出て、自転車に乗った。深夜のコンビニまで片道二十分。往復四十分かけてアイスを届けると、結衣は当然のように受け取った。
「ありがと。じゃあね」
ドアが閉まる。お礼の言葉すら、もはや義務的だった。
夏休み明け、友人たちの前で結衣は笑いながら言った。
「栞って便利なの。何でもやってくれるから。ね、栞?」
視線が集まる。みんな、私を見ている。
「靴紐、結んであげて」
結衣が差し出した足。
その瞬間、何かが壊れる音がした。
心の中で、ガラスが砕け散る音。
私は、ずっと結衣を愛していた。友達として。かけがえのない幼なじみとして。
でも、私の献身が、彼女を怪物に変えてしまった。
私が、彼女をこんな風にしてしまった。
何でも言うことを聞く人間がいたら、人は傲慢になる。それは当たり前のことだった。
彼女を責めることなんて、できない。
悪いのは、私だ。
だから、私にできることは一つしかなかった。
彼女の人生から、私という存在を消すこと。
面と向かって「もう無理」なんて言えない。嫌われるのが怖くて、拒絶する勇気もなくて。
だから、せめて。
彼女にとって、私を「いないもの」にしよう。
それが、私にできる最後の優しさだった。
第四章「崩壊する世界」
結衣の視点。
最初は怒りだった。
何なの、あの態度。十年以上の付き合いで、初めて無視された。
意味が分からない。喧嘩した覚えもない。昨日まで普通だったのに。
「いいわよ、こっちも無視してやる」
私も栞を無視することにした。
でも、三日で限界がきた。
朝、いつもなら栞が持ってきてくれるプリントがない。購買でパンを買おうとしたら、好きな味が売り切れていた。栞なら、朝一番で買っておいてくれたのに。
些細なこと。でも、その些細なことの積み重ねで、私の一日は回っていたんだと気づいた。
一週間が過ぎた。
ふとした瞬間に「ねえ、栞」と呼びかけてしまう。
でも、彼女は振り向かない。
まるで、私の声が聞こえていないみたいに。
まるで、私が存在していないみたいに。
恐怖が這い上がってきた。
何が不満なの? 何が悪かったの? 話し合おうよ。お願いだから、何か言って。
でも、栞は何も言わない。
視線すら、くれない。
二週間が過ぎた頃、私は泣きながら栞の腕を掴んだ。
「お願い、無視しないで。何でもするから。謝るから。ねえ、お願い……」
栞は静かに腕を引いた。
まるで、汚いものに触れられたみたいに。
その瞬間、分かった。
私は、彼女にとって「もういらない存在」になったんだ。
第五章「静寂の檻の中で」
三月。卒業式。
体育館の隅で、私は結衣を見ていた。
彼女は友達と笑っている。少しだけ、表情が柔らかくなった気がする。
半年間、私は彼女を無視し続けた。
最初の一ヶ月は辛かった。呼びかけられても応えない。困っている姿を見ても助けない。
心が千切れそうだった。
でも、少しずつ結衣は変わっていった。
自分でプリントを確認するようになった。自分で買い物をするようになった。自分で考えて、自分で動くようになった。
私がいなくても、彼女は生きていけるようになった。
それで、良かった。
本当は、ちゃんと話すべきだった。
「あなたのためを思って、何でもやってあげるのはやめる」って。
でも、私にはその勇気がなかった。
嫌われるのが怖くて。拒絶されるのが怖くて。
だから、この卑怯な方法しか選べなかった。
ごめんね、結衣。
あなたを怪物にしてしまったのは、私。
そして、あなたを見捨てたのも、私。
でも、これで良かったんだと思う。
これから、あなたは自分の足で歩いていける。
私という「便利な道具」に頼らずに。
結衣が友達と校門を出ていく。
私は反対方向に歩き出した。
二人の道は、もう交わらない。
それで、いい。
それが、私にできた最後の愛だから。
目元が熱くなる。涙がこぼれそうになって、私は空を見上げた。
さようなら、結衣。
幸せになってね。
【終】