墨色の処方箋 〜路地裏の字書き処〜
あらすじ
路地裏の書道教室で、観月先生は訪れる人々の書く文字から心の重荷を見抜く。就活に悩む女性、二世タレントとしての重圧に苦しむ青年。震える線、重すぎるハネ。墨と筆が教えてくれる、本当の自分を取り戻す物語。
第一章:震える横線
「すみません、遅れました」
息を切らして飛び込んできたのは、紺のスーツに身を包んだ女性だった。
「いえいえ、ちょうど良いタイミングですよ」
観月先生は穏やかに微笑んで、彼女を奥の座卓へと案内した。
この「硯堂書道教室」に足を踏み入れるのは、彼女——桜庭美咲にとって初めてのことだった。古い木造家屋の引き戸を開けた瞬間、ふわりと漂ってきた墨の香りに、なぜか涙が出そうになった。
「では、まず一文字、何でも好きな字を書いてみてください」
観月先生が差し出した半紙を前に、美咲は筆を握った。
何を書こうか。
迷った末に、彼女が選んだのは「自」という字だった。
自分。自信。自立。
就活を始めて半年。三十社以上受けて、全て不採用。最終面接まで進んでも、最後の最後で落とされる。
「私には何も無いんです」
そう面接官に言われた気がして、美咲は自分という存在そのものに自信を失っていた。
筆を下ろす。
横線を引く。
その瞬間、筆先が小刻みに震えた。
「……っ」
横線がガタガタに波打っている。まるで地震計のグラフみたいに。
「すみません、やり直します」
「いえ、そのままで大丈夫ですよ」
観月先生の声は優しかった。
美咲は震える手で、最後まで書き上げた。
できあがった「自」の字は、見るも無残だった。横線は波打ち、縦線は曲がり、バランスも何もあったものじゃない。
「……下手ですよね」
「いいえ、とても正直な字です」
観月先生は半紙をじっと見つめた。
「桜庭さん。この字の一番上の横線、震えていますね」
「はい……」
「この線は、何かを支えようとして、必死に踏ん張っている線です」
美咲の胸が、ドクンと跳ねた。
「でも、支えようとしているものが重すぎて、足が震えている。そんな状態じゃないですか?」
「……どうして、それが」
「字は嘘をつけませんから」
観月先生は、新しい半紙を差し出した。
「もう一度、書いてみましょう。今度は、何も支えなくていい。ただ、筆を走らせてみてください」
「何も、支えなくていい……?」
「そうです。期待も、責任も、全部置いて。ただ、線を引く」
美咲は深呼吸をした。
そして、もう一度筆を握った。
今度は、何も考えずに。ただ、筆の重みに任せて。
スッと横線を引く。
不思議なことに、震えなかった。
「……震えてない」
「ええ。力が抜けましたね」
観月先生は微笑んだ。
「桜庭さん、あなたは誰かの期待に応えようとして、自分を支えすぎていたんです。でも、本当は何も支えなくていい。ただ、あなたがあなたでいるだけで、この線はまっすぐ引けるんですよ」
美咲の目から、ポロポロと涙がこぼれた。
「私……私、ずっと、自分が何者かを証明しなきゃって思ってて」
「証明する必要はありません。あなたはもう、ここにいる」
観月先生は、美咲が書いた二枚の半紙を並べた。
「最初の字と、二枚目の字。どちらもあなたです。でも、どちらが本当のあなただと思いますか?」
美咲は、震えた線と、まっすぐな線を見比べた。
「……二枚目、です」
「そうですね。力を抜いた時の方が、字はまっすぐになる。人も同じです」
観月先生は優しく言った。
「あなたはもう十分頑張っています。だから、そろそろ肩の力を抜いてもいいんですよ」
美咲は何度も頷いた。
涙で滲んだ視界の中で、墨の黒が優しく揺れていた。
その日から、美咲は週に一度、硯堂書道教室に通うようになった。
そして三ヶ月後。
彼女は、自分らしく面接に臨むことができた。
結果は——合格。
「ありがとうございました、先生」
美咲が報告に来た時、観月先生は柔らかく笑った。
「おめでとうございます。でも、これは桜庭さん自身の力ですよ」
「いえ、先生に出会えたから」
「それなら、これからもたまには顔を出してくださいね。墨の香りが、あなたを待っていますから」
美咲は深々と頭を下げた。
そして教室を後にする時、振り返って小さく呟いた。
「また、来ます」
観月先生は、静かに筆を洗っていた。
墨色の水が、ゆっくりと広がっていく。
その様子を見つめながら、彼は小さく微笑んだ。
「字は嘘をつけない。けれど、書き直すことは何度でもできる」
恩師の言葉が、また胸に響いた。
第二章:重すぎるハネ
硯堂書道教室の引き戸が開いたのは、梅雨の晴れ間の午後だった。
「あの、こちら、書道教室ですよね?」
声の主は、サングラスにマスク、キャップを深く被った人物だった。
「ええ、そうですよ。どうぞ」
観月先生は特に驚いた様子もなく、いつも通り座卓へと案内した。
その人物——椎名蓮は、恐る恐るサングラスを外した。
「……気づきました?」
「いえ、全く」
観月先生は本当に知らない様子で首を傾げた。
蓮は少しホッとした。
彼は、二世タレントだった。父親は国民的俳優の椎名龍一。母親は元トップアイドルの美鈴。そんな両親を持つ蓮は、生まれた瞬間から「椎名家の息子」として注目され続けてきた。
「最近、スランプで」
蓮はぽつりと言った。
「演技が、できなくなったんです」
「そうですか」
「台本を読んでも、何も感じない。カメラの前に立っても、何も出てこない。父さんみたいに、母さんみたいに、なれない」
観月先生は黙って聞いていた。
「それで、何か気分転換になればと思って……こういう所、初めてなんですけど」
「ではまず、一文字書いてみましょうか」
観月先生が差し出した半紙を前に、蓮は筆を握った。
何を書こう。
迷った末、彼が選んだのは「星」という字だった。
芸能界。スター。輝く存在。
そういうものに、憧れていた。憧れて、目指して、でも辿り着けなくて。
筆を下ろす。
一画目、二画目と書き進める。
そして最後の「生」の部分。
ハネを書いた瞬間、筆が重かった。
まるで鉛でも入っているみたいに。
「……できました」
蓮が筆を置くと、観月先生はじっと半紙を見つめた。
「椎名さん。この『星』の最後のハネ、ものすごく力が入っていますね」
「え……ああ、はい」
「まるで、何か重いものを引きずっているみたいに見えます」
蓮の胸に、ズキンと痛みが走った。
「この字、誰かに見せるために書きました?」
「……は?」
「誰かの期待に応えるために、誰かを喜ばせるために、書いた字じゃないですか?」
観月先生の声は優しかったけれど、その言葉は蓮の心臓を撃ち抜いた。
「どうして……」
「字は嘘をつけませんから」
観月先生は新しい半紙を差し出した。
「もう一度、書いてみましょう。今度は、誰にも見せなくていい。自分だけの『星』を」
「自分だけの……」
蓮は戸惑った。
自分だけの星なんて、考えたこともなかった。いつも「椎名龍一の息子」として、「美鈴の息子」として、期待される星でいなければならなかった。
「でも、それじゃ星じゃなくなっちゃう」
「なりませんよ」
観月先生は静かに言った。
「あなたが輝けば、それはあなたの星です。誰かの星である必要はない」
蓮は、もう一度筆を握った。
誰にも見せなくていい。
期待に応えなくていい。
ただ、自分が好きな「星」を。
筆を下ろす。
今度は、力を抜いて。ゆっくりと、自分のペースで。
最後のハネも、軽やかに。
「……できました」
蓮が筆を置くと、観月先生は微笑んだ。
「いい字ですね。最初の字より、ずっと軽やかです」
「本当だ……」
蓮は二枚の半紙を見比べた。
最初の「星」は、確かに重そうだった。最後のハネが、まるで地面に引っ張られているみたいに。
でも、二枚目の「星」は違った。
ハネが、空に向かって伸びていた。
「椎名さん、あなたは誰かの看板を背負いすぎていたんです」
観月先生は静かに言った。
「でも、看板は下ろしてもいい。あなたはあなたとして、輝けばいいんですよ」
蓮の目から、ポロポロと涙がこぼれた。
「俺……俺、ずっと父さんや母さんみたいにならなきゃって」
「ならなくていいんです。あなたは、あなたでいい」
観月先生は優しく言った。
「他人の星ではなく、自分の星を目指してください」
蓮は何度も頷いた。
涙で滲んだ視界の中で、墨の黒が優しく揺れていた。
それから、蓮は定期的に硯堂書道教室に通うようになった。
そして半年後。
彼は、ある映画のオーディションに合格した。
役名は「名もなき青年」。
主役ではない。脇役でもない。ただの通行人A。
でも、蓮はその役を全力で演じた。
「椎名龍一の息子」としてではなく、「椎名蓮」として。
その演技が評価され、彼は新人賞を受賞した。
「先生、ありがとうございました」
蓮が報告に来た時、観月先生は柔らかく笑った。
「おめでとうございます。これからも、自分の星を目指してくださいね」
「はい」
蓮は深々と頭を下げた。
そして教室を後にする時、振り返って小さく呟いた。
「また、来ます」
観月先生は、静かに筆を洗っていた。
墨色の水が、ゆっくりと広がっていく。
その様子を見つめながら、彼は小さく微笑んだ。
「字は嘘をつけない。けれど、書き直すことは何度でもできる」
恩師の言葉が、また胸に響いた。