蜘蛛の糸:慈悲の先にあるもの
極楽の蓮池のほとり、御釈迦様は静かに佇んでいらっしゃいました。蓮の花の香りが満ちる中、水面に映る地獄の光景に、御釈迦様の御顔にはわずかな翳りが差しました。
御眼に留まったのは、血の池で苦しむ一人の男、カンダタ。大泥棒でありながら、かつて一匹の蜘蛛の命を救ったという、その僅かな善行を御釈迦様は思い出されました。
「かの男に、今一度、救いの手を差し伸べよう…」
翡翠色の蓮の葉の上に、一匹の蜘蛛が美しい銀色の糸を紡いでいました。御釈迦様はその糸を優しく手に取ると、遥か下の地獄へと、そっと垂らされました。
地獄からの光芒
血の池の底で、カンダタは絶望に喘いでいました。終わりなき苦痛と、漠然とした闇だけが彼を包み込んでいました。その時、暗闇を貫く一筋の銀色の光が、彼の目に飛び込んできました。それは、天上からまっすぐに垂れてきた、一本の蜘蛛の糸でした。
カンダタは歓喜しました。これこそが、地獄からの脱出の道標だと。彼は両手でしっかりと蜘蛛の糸を掴み、一心不乱に上へと昇り始めました。大泥棒として培われた身軽さが、こんなところで役立つとは、と彼は内心で微かに笑いました。
どれほどの時間が経ったでしょう。血の池ははるか下に見えなくなり、針の山も足元に消えました。カンダタは思わず「しめた!」と声に出して喜びました。しかし、その喜びは束の間、彼の視界に信じられない光景が飛び込んできました。
蜘蛛の糸の先
カンダタの背後には、数えきれないほどの罪人たちが、まるで蟻の行列のようにぞろぞろと蜘蛛の糸を登ってくるではありませんか。その光景に、カンダタは驚愕と恐怖に固まりました。自分一人でさえ切れそうな細い糸が、これほど多くの人間の重みに耐えられるはずがない。もし切れてしまえば、自分もまた地獄の底へ逆戻りだと。
「こら、罪人ども!この蜘蛛の糸は俺のものだ!お前たちは誰の許しを得て登って来た!降りろ!降りろ!」
カンダタは我を忘れ、怒鳴りつけました。その瞬間、彼のぶら下がっていた蜘蛛の糸が、プツリと音を立てて切れました。カンダタは風を切り、駒のように回転しながら、見る間に暗闇の底へと落ちていきました。
極楽の蓮池のほとりでは、御釈迦様が静かにその一部始終をご覧になっていました。カンダタの無慈悲な心に、御釈迦様は再び悲しげな御顔をなさいました。しかし、蓮池の蓮は変わらず、その玉のような白い花を揺らし、良い香りをあたりに溢れさせていました。
その日、蜘蛛の糸は再び天上へと引き上げられ、二度と地獄へと垂れることはありませんでした。カンダタの身勝手な振る舞いは、彼自身を救う最後の機会を奪い去ったのでした。
原作小説
- 原作小説名
- 蜘蛛の糸
- 原作作者
- 芥川 竜之介
- 青空文庫図書URL
- https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card92.html