残り香の朱印
あらすじ
突然亡くなった姉の遺品から見つかった御朱印帳。家族のために密かに祈り続けていた姉の足跡を辿りながら、妹・春香は知らなかった姉の優しさと愛情に気づいていく。喪失と再生、そして想いの継承を描いた感動の物語。
第一章 姉の部屋で見つけたもの
姉が死んだのは、冬の終わりの午後だった。
横断歩道を渡っていた恵姉ちゃんに、ブレーキの壊れたトラックが突っ込んできた。一瞬のことだったらしい。痛みを感じる間もなかっただろうって、警察の人は言っていた。
でも、私はその言葉に何の慰めも感じなかった。
葬儀の間、私は泣けなかった。悲しくないわけじゃない。ただ、姉に対して感じていたのは、悲しみよりも空っぽの感覚だった。
恵姉ちゃんは優しかった。いつも穏やかで、怒ったところなんて見たことがない。でも同時に、何を考えているのか全然分からない人だった。
私たちは同じ家で育ったのに、姉が好きなものも、悩んでいたことも、何も知らない。
そんな自分が、ひどく恥ずかしかった。
「春香、ちょっと手伝ってくれる?」
母の声で我に返る。葬儀から一週間。遺品整理を始めることになった。
姉の部屋は相変わらず静かで、きれいに片付いていた。本棚には参考書とファッション雑誌。机の上には何も置かれていない。
「恵、本当に几帳面だったわね」
母がそう呟きながらクローゼットを開けた。
服を整理していると、奥からコトリと何かが落ちた。
「ん? これ……」
母が拾い上げたのは、一冊の御朱印帳だった。深い藍色の表紙に、金の唐草模様。
「恵、御朱印集めてたの?」
父も覗き込んでくる。私たちは顔を見合わせた。誰も知らなかった。
「開けてみていい?」
母がページをめくる。
最初のページには、近所の神社の朱印。日付は三年前の春だ。
ページが進むにつれて、見知らぬ土地の神社が増えていく。箱根、鎌倉、京都……。
「一人で旅行してたのかな」
父が不思議そうに言う。
姉が一人旅をしていたなんて、聞いたことがなかった。週末に出かけることはあったけど、「友達と買い物」くらいにしか思っていなかった。
「春香、この御朱印帳、あなたが持っていなさい」
母が私に差し出してくる。
「え、でも……」
「恵もきっと、そうしてほしいと思うわ」
受け取った御朱印帳は、思ったより重かった。
その夜、私は部屋で御朱印帳を開いた。
一ページ一ページ、丁寧に貼られた朱印。その横には、小さな文字でメモが書かれていた。
『恋愛成就。うまくいきますように』
『就職、決まりますように』
『家族みんなが健康でいられますように』
ああ、姉にもこんな悩みがあったんだ。
私が知らなかっただけで、姉だって普通の二十代の女性だった。恋愛に悩んで、仕事に不安を感じて。
ページが進むと、祈願の内容が変わっていく。
『お父さんの腰が治りますように』
『お母さんの更年期が楽になりますように』
『春香の受験がうまくいきますように』
日付を見て、ハッとした。
父の腰痛が悪化した時期。母が体調を崩していた時期。そして私の受験期。
姉は、家族のために祈っていたんだ。
誰にも言わずに、一人で神社を巡って。
涙がこぼれた。初めて、本当の悲しみが込み上げてきた。
姉のことを何も知らなかった。知ろうともしなかった。でも姉は、ずっと私たちのことを想ってくれていた。
御朱印帳を抱きしめる。姉の温もりなんて、もうどこにもないのに。
「姉ちゃん……私、何も知らなくてごめん」
声に出して謝っても、もう届かない。
でも、この御朱印帳には姉の想いが詰まっている。
私は決めた。姉が巡った神社を、私も訪れよう。姉の足跡を辿れば、きっともっと姉のことを知れる気がした。
第二章 足跡を追いかけて
翌週から、私は週末ごとに御朱印帳に記された神社を訪れ始めた。
最初は近所の神社から。姉が初めて朱印をもらった場所だ。
小さな神社。いつも通学路から見えていた場所なのに、中に入ったのは初めてだった。
姉はここで何を祈ったんだろう。
御朱印をいただきながら、そんなことを考えた。
次は箱根。姉が『恋愛成就』と書いていた神社だ。
縁結びで有名な場所らしい。私が高校生の頃、姉には付き合っている人がいたのかもしれない。
でも、その話を姉から聞いたことは一度もなかった。
京都の神社では、『就職、決まりますように』のメモ。そうか、あの頃姉は就活中だったんだ。
いつも穏やかな顔をしていたけど、きっと不安だっただろうな。
神社を巡るたびに、姉の人生が少しずつ見えてくる。
知らなかった姉の一面。普通の女の子としての悩み。
そして何より、家族への深い愛情。
御朱印帳の中盤以降、ほとんどのメモが家族のことになっていた。
『お父さんの腰が治りますように』
この日付は、父が整形外科に通い始めた時期だ。
『お母さんが元気でいられますように』
母が更年期で辛そうにしていた頃。
そして、私の受験期のメモが増えていく。
『春香の体調が崩れませんように』
『春香が希望の大学に入れますように』
日付を見ると、私の誕生日や受験日の前後だ。
姉は、私のために祈ってくれていたんだ。
あの頃の私は、受験のストレスで家族にも当たり散らしていた。姉に優しくされても、素っ気ない返事ばかりしていた。
なのに姉は、黙って私の幸せを祈ってくれていた。
「姉ちゃん……ありがとう」
神社の境内で、一人呟いた。
もっと早く、姉の優しさに気づけていたら。もっと素直に、姉に甘えられていたら。
後悔ばかりが募る。
でも、この旅を続けることで、少しは姉に近づける気がした。
御朱印帳は、残り三分の一ほど。あと少しで、姉の足跡を全部辿れる。
そう思いながら、次のページをめくった。
そして、私は息を呑んだ。
第三章 太宰府の真実
太宰府天満宮。
福岡にある、学問の神様を祀る神社だ。
日付は、私が大学受験をした年の一月。
でも、おかしい。
この時期、姉は家にいなかった。「インフルエンザをうつしたくないから」って、一人でビジネスホテルに避難していたはずだ。
母も父も心配していたけど、姉は「大丈夫、薬飲んで寝てるから」って電話をよこしていた。
でも、御朱印帳にははっきりと書いてある。太宰府天満宮、一月十五日。
私のセンター試験の三日前だ。
「まさか……」
スマホで調べる。東京から太宰府まで、飛行機で二時間半。
姉はインフルエンザなんかじゃなかった。
嘘をついて、九州まで私の合格祈願に行っていたんだ。
胸が締め付けられる。
当時の私を思い出す。受験のプレッシャーで神経質になっていて、家族の些細な物音にもイライラしていた。
だから姉は、気を遣わせないように嘘をついたんだ。
自分が風邪をひいたことにして、家を空けて。そして誰にも言わずに、遠い九州まで。
御朱印帳のメモには、こう書いてあった。
『春香が第一志望に合格できますように。これまでの努力が実を結びますように』
涙が止まらなくなった。
そういえば、あの時。
試験の前日、母が「これ、持っていきなさい」って、太宰府のお守りをくれたんだ。
「お母さんが買ってきてくれたの?」って聞いたら、母は「ええ、まあ」って曖昧に笑っていた。
あれ、姉だったんだ。
姉が九州まで行って買ってきたお守りを、母に渡して「お母さんから」として私に渡させたんだ。
自分の名前を出さずに。
なんで。
なんでそこまでしてくれたのに、何も言わなかったの。
「ありがとう」って言いたかった。
「姉ちゃんのおかげで合格できたよ」って、伝えたかった。
でももう、遅い。
私は次の週末、太宰府に向かった。
姉が見たものを、私も見たかった。姉が歩いた道を、私も歩きたかった。
太宰府天満宮は、想像以上に美しい場所だった。
長い参道を歩き、本殿に向かう。平日だというのに、参拝客で賑わっている。
姉もこの道を歩いたんだな。
私のために祈りながら。
本殿で手を合わせる。
もう受験生じゃないから、合格祈願じゃない。
ただ、姉への感謝を伝えたかった。
「姉ちゃん。私、合格できたよ。姉ちゃんが祈ってくれたから。本当に、ありがとう」
涙がこぼれる。
周りに人がいることも忘れて、私は泣いた。
姉は不器用だった。
自分の気持ちを言葉にするのが苦手で、いつも黙って行動で示していた。
だから私は気づけなかった。姉がどれだけ私のことを想ってくれていたか。
でも、この御朱印帳が教えてくれた。
姉の愛は、こんなにも深くて、温かくて。
私はずっと、姉に守られていたんだ。
第四章 これからの朱印
太宰府から帰った私は、御朱印帳の最後のページを確認した。
まだ数ページ、白いままだ。
姉は、ここに何を書くつもりだったんだろう。
でも、もう姉がこのページを埋めることはない。
だったら、私が続きを書こう。
姉が愛したこの趣味を、私が引き継ごう。
次の週末、私は近所の神社を訪れた。
御朱印をいただき、姉の御朱印帳に貼る。
そして、メモを書いた。
『お父さんとお母さんが、これからも健康でいられますように』
姉がいつも祈っていたこと。それを私も祈ろう。
『姉ちゃんが、向こうで幸せでいられますように』
会いたい。もう一度、話したい。
でも、それは叶わない。
だから、せめて祈ることしかできない。
家に帰ると、母が夕飯の準備をしていた。
「おかえり。どこ行ってたの?」
「神社。御朱印もらってきた」
御朱印帳を見せると、母の目が丸くなった。
「春香も、御朱印集めるの?」
「うん。姉ちゃんの続き」
母は少し泣きそうな顔をして、でも笑ってくれた。
「そう。恵も喜ぶわね」
その夜、私は部屋で御朱印帳を開いた。
姉が集めた朱印と、私が集め始めた朱印。
二人の想いが、一冊の帳面に詰まっている。
姉はもういない。
でも、姉の愛は今も私の中に残っている。
この御朱印帳が、それを証明してくれる。
「姉ちゃん。私、姉ちゃんの分まで生きるね」
窓の外を見上げる。
冬の終わりの空は、少しずつ春の気配を帯びてきていた。
姉が死んだ季節。
でも、終わりは始まりでもある。
私はこれから、姉が願ってくれた「幸せな人生」を歩んでいく。
御朱印帳を胸に抱いて、私は静かに誓った。
姉の想いを胸に。姉が愛したこの趣味を続けながら。
姉の残してくれた朱印の、その先へ。