青空短編小説

真夜中の蝶、ひだまりの葉

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あらすじ

指定されたURLにアクセスして、小説の内容を確認させていただきます。夜の世界で「エリカ」として生きた三十六歳の美咲が引退後、枯れかけた観葉植物との出会いをきっかけに、少しずつ心を取り戻していく物語。植物を育てる日々の中で、自分自身も再生していく再生と希望の物語。

第一章 止まった時計


鏡に映る女は、三十六歳だった。


厚化粧を落とした顔は、思ったより老けていた。目の下のくまは消えず、肌のハリもない。何より、その瞳に光がなかった。


「エリカ」として生きた十五年間。歌舞伎町の夜は、私をキラキラと輝かせてくれた。シャンパンを開ける音、客の笑い声、同伴で歩く街のネオン。そのすべてが、今は遠い。


引退して三ヶ月。郊外の1Kアパート。家賃は新宿の半額以下だけれど、静かすぎて耳が痛い。


朝方に眠り、夕方に起きる。体内時計は未だに夜の世界のままで、普通の生活リズムに戻せない。自律神経失調症と診断された体は、ちょっとした温度変化でめまいを起こす。


それでも生きていかなきゃいけない。貯金は底を見せ始めている。


近所のスーパーで品出しのパートを始めたけれど、周りは主婦ばかり。子供の話題、夫の愚痴、夕飯の献立。私には何一つ共有できる話がなくて、休憩室では隅っこでスマホを見るふりをしている。


「美咲さん、また顔色悪いわよ」


店長の声が遠くから聞こえる。ごめんなさい、と謝る。謝ることだけは上手くなった。


仕事帰り、日用品を買いにホームセンターへ寄った。トイレットペーパー、洗剤、ゴミ袋。生きるために必要な最低限のもの。


園芸コーナーを通りかかったとき、視線が止まった。


隅っこの棚に、枯れかけた観葉植物が並んでいる。処分品のコーナーだ。茶色く変色した葉、カラカラに乾いた土。値札には「780円」と書かれていた。


その中の一鉢、パキラという名前の植物が、なぜか目に留まった。


幹は細く、葉は半分以上が枯れている。でも、てっぺんに小さな緑の葉が一枚だけ残っていた。必死に生きようとしている、そんな風に見えた。


気づいたら手に取っていた。


「お客様、それ処分品なんで半額にしますよ」


店員が声をかけてくれたけれど、私は首を横に振った。


「いえ、このままで大丈夫です」


レジに並びながら、ふと思った。この子も私と同じだ。枯れかけて、誰にも見向きもされなくて、それでも生きている。


部屋に戻って、パキラを窓際に置いた。どう育てればいいのか分からなくて、スマホで調べる。


『土が乾いてからたっぷりと水をやる。直射日光は避け、明るい日陰で』


シンプルな指示だった。でも、それすら私には新鮮だった。「構いすぎない」ことが大事。適度な距離感。そういえば、私は人に対してもそうできなかった。


水をやって、窓際の日差しが当たる場所に置く。たったそれだけのことなのに、何かを始めた気がした。


第二章 芽吹く心


パキラに水をやることが、朝の日課になった。


いや、正確には昼過ぎの日課だ。まだ朝に起きられる日は少ない。それでも、この子のために起き上がる理由ができた。


「おはよう」


声をかけると、馬鹿みたいだと自分でも思う。でも、誰もいない部屋で声を出すことが、少しだけ心を軽くしてくれる。


二週間が経った頃、変化に気づいた。


てっぺんの小さな芽が、ほんの少し大きくなっている。気のせいかと思って毎日観察していると、確実に成長していた。黄緑色の柔らかい葉が、少しずつ開いていく。


三週間目。新しい葉が完全に開いた瞬間、私は泣いた。


涙が止まらなかった。いつ以来だろう、こんなに泣いたのは。店のトイレで隠れて泣いたことは何度もあったけれど、あれは苦しみの涙だった。これは違う。


「生きてる」


そう呟いた。この子は生きている。枯れかけていたのに、水と光だけで、こんなにも美しい緑を見せてくれる。


そして、私も生きている。


パキラをきっかけに、何かが動き出した。仕事帰りにホームセンターへ寄る頻度が増えた。園芸コーナーをぐるぐる回って、新しい植物を探す。


次に連れて帰ったのは、サンスベリアだった。


「空気清浄効果があり、乾燥に強い。初心者向き」という説明に惹かれた。育て方を調べると、「月に一、二回の水やりで十分」とある。


放っておいても大丈夫。その言葉に、妙に安心した。


私は今まで、誰かに必要とされることでしか自分の価値を感じられなかった。客を笑わせる、同伴に誘われる、指名される。それが私の存在証明だった。


でも、この子は違う。構いすぎると根腐れする。適度な距離感が必要。そういう関係もあるんだ。


窓際にパキラとサンスベリアが並んだ。二鉢だけなのに、部屋の空気が変わった気がした。緑があるだけで、こんなにも違うんだ。


スーパーの休憩室で、同僚の主婦が話しかけてきた。


「美咲さん、最近なんか雰囲気変わったわね」


「え、そうですか?」


「うん。前より表情が柔らかくなったっていうか」


嬉しかった。誰かに気づいてもらえたことが。


「実は、観葉植物を育て始めたんです」


そう答えると、彼女は目を輝かせた。


「あら、いいわね! うちもポトス育ててるのよ。すっごく簡単で、どんどん増えるから」


初めて、普通の会話ができた気がした。夜の世界とは関係ない、ただの日常の話。それが嬉しかった。


第三章 変化と再生


部屋の緑は増え続けた。


モンステラ、ポトス、多肉植物。窓際だけでは足りなくなって、棚を買い足した。スマホのメモ帳には、それぞれの水やりの頻度と特徴が書き込まれている。


中でも気に入っているのは、モンステラだった。


大きな葉に深い切れ込みが入る、独特の姿。育て方を調べると、「成長が早く、環境に合わせて葉の形を変える」とある。


窓際に置いたモンステラは、みるみるうちに大きくなった。新しい葉が出るたびに、切れ込みの数が増えていく。


「環境に合わせて、形を変えていいんだね」


私も変わっていい。夜の世界で作り上げた「エリカ」という殻を脱いで、新しい自分になっていい。そう思えた。


ある日、ホームセンターで若い男性に声をかけられた。


「あの、すみません。多肉植物の育て方、教えてもらえますか?」


彼は大学生くらいで、恥ずかしそうに小さな多肉植物の鉢を持っていた。


「ああ、それならまず水やりを控えめにすることが大事で……」


気づけば、私は夢中で説明していた。土の種類、日当たり、水やりの頻度。ここ数ヶ月で学んだことを、自然と言葉にしていた。


「ありがとうございます! めっちゃ分かりやすいです」


彼は笑顔でお礼を言って去っていった。


人に何かを教える。それも、夜の世界のテクニックじゃなく、ただの趣味として。新鮮だった。


多肉植物は、私に「待つこと」を教えてくれた。


ぷっくりとした葉に水を溜め込んで、ゆっくりと成長する。焦らなくていい。自分のペースでいい。そんな風に囁いてくれる気がした。


スーパーの仕事も、少しずつ慣れてきた。体調が安定する日が増えて、朝に起きられることも多くなった。同僚たちとも、植物の話で盛り上がれるようになった。


「美咲さん、うちのポトス元気ないんだけど、見てくれない?」


そう頼まれて、同僚の家を訪ねた。初めての、夜の世界とは関係ない友人関係。


ポトスは根詰まりを起こしていた。一緒に植え替えをして、お茶を飲みながら他愛ない話をした。子供のこと、夫のこと。私には縁がない話だけれど、聞いているだけで温かい気持ちになった。


「美咲さんって、意外と面白いわね」


その言葉が、胸に沁みた。


私は「エリカ」として面白い女を演じていた。でも今、素の私を面白いと言ってくれる人がいる。


第四章 本当の「開花」


冬が来た。


植物たちは成長を緩め、休眠期に入る。でも、それは終わりじゃない。春を待っているだけ。


私も同じだ。今は充電期間。焦らず、ゆっくりと力を蓄える。


鏡を見た。三十六歳の女が映っている。でも、三ヶ月前とは違う。目の下のくまは薄くなり、肌には健やかな艶が戻っていた。


何より、瞳に光があった。


朝、窓を開けると冷たい空気が入ってくる。植物たちに声をかけながら、状態を確認する。モンステラの葉に埃が積もっていたから、濡れた布で優しく拭く。


この子たちと過ごす時間が、私の一番の幸せになっていた。


ある日、スマホのメモ帳を見返していたとき、ふと思いついた。


「カフェ、やってみようかな」


口に出してみると、現実味を帯びてくる。


植物に囲まれた、小さなカフェ。疲れた人が立ち寄って、緑を眺めながらコーヒーを飲む。そんな場所。


貯金はまだ少ない。でも、焦る必要はない。多肉植物のように、ゆっくりと準備すればいい。


スーパーの店長に相談すると、意外にも応援してくれた。


「いいじゃない。美咲さんなら、素敵な場所作れると思うわよ」


同僚たちも口々に励ましてくれた。「開店したら絶対行く」「植物の育て方教えて」。


夜の世界では、誰もが競争相手だった。笑顔の裏に牙を隠し、蹴落とし合う。でも今、私の周りにいるのは、ただ応援してくれる人たちだ。


春が来た。


パキラのてっぺんから、新しい芽がいくつも顔を出した。最初に連れて帰ったあの日から一年。この子は、こんなにも大きくなった。


窓際には十数鉢の植物が並び、部屋はまるで小さな温室のようだった。


カフェの物件を探し始めた。開業資金を貯めるために、スーパーの勤務時間を増やした。植物の知識を深めるために、園芸の本を読み漁った。


夢に向かって進むことが、こんなにも楽しいなんて。


かつての私は、ただ生き延びることに必死だった。でも今は違う。未来を見ている。柔らかな木漏れ日の中で、緑に囲まれた自分を想像している。


モンステラの新しい葉が開いた。今までで一番大きな切れ込みが入っている。


「すごいね、また大きくなったね」


声をかけると、葉がそよそよと揺れた。風が通り抜けていったんだろう。でも、私には返事をしてくれたように思えた。


夜の蝶は、ひだまりの葉になった。


派手な羽ではなく、静かな緑で生きていく。それが、私の新しい人生。


窓の外では、春の光が優しく降り注いでいた。