青空短編小説

登録日時：2025-12-13 03:19:06 更新日時：2025-12-13 04:21:16

雨宿りの下人

ある日の夕暮れどきのこっちゃ。一人の下人が、羅生門の下で雨やむんを待っとったんや。

広い門の下には、この男のほかに誰もおらん。ただ、所々丹塗りの剥げた、でっかい円柱に、きりぎりすが一匹とまっとる。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はおりそうなもんや。せやのに、この男のほかには誰もおらん。

何でかっちゅうと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか飢饉とかいう災いがつづいて起こったんや。そこで洛中の寂れ方は一通りやない。旧記によると、仏像や仏具を打ち砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路端に積み重ねて、薪の代わりに売っとったっちゅう事や。洛中がその始末やから、羅生門の修理なんぞは、もとより誰も捨てて顧みる者がおらんかった。するとその荒れ果てたんをええ事にして、狐狸が棲む。盗人が棲む。とうとうしまいには、引き取り手のない死人を、この門へ持って来て、捨てていくっちゅう習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えんようになると、誰でも気味悪がって、この門の近所へは足踏みをせん事になってしもたんや。

鴉と死人

その代わりまた鴉がどっからか、ぎょうさん集まって来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛び回っとる。ことに門の上の空が、夕焼けで赤うなる時には、それが胡麻を撒いたようにはっきり見えた。鴉は、もちろん、門の上にある死人の肉を、啄みに来るんや。――もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えへん。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草の生えた石段の上に、鴉の糞が、点々と白うこびりついとるんが見える。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖の尻を据えて、右の頬に出来た、でっかい面皰を気にしながら、ぼんやり、雨の降るんを眺めとった。

作者はさっき、「下人が雨やみを待っとった」と書いた。せやけど、下人は雨がやんでも、格別どないしようっちゅう当てはあらへん。ふだんなら、もちろん、主人の家へ帰る可き筈や。ところがその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微しとった。今この下人が、永年、使われとった主人から、暇を出されたんも、実はこの衰微の小さな余波にほかならへん。やから「下人が雨やみを待っとった」っちゅうよりも「雨に降りこめられた下人が、行き所がのうて、途方に暮れとった」っちゅう方が、適当や。その上、今日の空模様も少なからず、この平安朝の下人のセンチメンタリズムに影響した。申の刻下がりから降り出した雨は、未だに上がるけしきがあらへん。そこで、下人は、何をおいても差し当たり明日の暮らしをどないかしようとして――言わばどないもならん事を、どないかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路に降る雨の音を、聞くともなく聞いとったんや。

雨は、羅生門を包んで、遠くから、ざあっっちゅう音を集めて来る。夕闇は次第に空を低うして、見上げると、門の屋根が、斜めに突き出した甍の先に、重たく薄暗い雲を支えとる。

生きるための選択

どないもならん事を、どないかするためには、手段を選んどる暇はあらへん。選んどれば、築土の下か、道端の土の上で、餓え死にをするばかりや。そうして、この門の上へ持って来て、犬みたいに捨てられてしまうばかりや。選ばんとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。せやけどこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」やった。下人は、手段を選ばんっちゅう事を肯定しながらも、この「すれば」の片をつけるために、当然、その後に来る可き「盗人になるよりほかに仕方があらへん」っちゅう事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出んかったんや。

下人は、でっかいくしゃみをして、それから、大儀そうに立ち上がった。夕冷えのする京都は、もう火桶が欲しいほどの寒さや。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮のう、吹き抜ける。丹塗りの柱にとまっとったきりぎりすも、もうどっかへ行ってしもた。

下人は、首を縮めながら、山吹の汗袗に重ねた、紺の襖の肩を高うして門のまわりを見回した。雨風の患えのない、人目にかかる恐れのない、一晩楽に寝られそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思たからや。すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯子が眼についた。上なら、人がおったにしても、どうせ死人ばかりや。下人はそこで、腰にさげた聖柄の太刀が鞘走らんように気をつけながら、藁草履を履いた足を、その梯子の一番下の段へ踏みかけた。

楼の上の怪しい火

それから、何分かの後や。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫みたいに身を縮めて、息を殺しながら、上の容子を窺っとった。楼の上から差す火の光が、かすかに、その男の右の頬を濡らしとる。短い髭の中に、赤う膿を持った面皰のある頬や。下人は、始めから、この上におる者は、死人ばかりやと高を括っとった。それが、梯子を二三段上ってみると、上では誰か火を灯して、しかもその火をそこここと動かしとるらしい。これは、その濁った、黄色い光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったんで、すぐにそれと知れたんや。この雨の夜に、この羅生門の上で、火を灯しとるからは、どうせただの者やあらへん。

下人は、守宮みたいに足音を盗んで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして体を出来るだけ、平らにしながら、首を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗いてみた。

見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸が、無造作に捨ててあるが、火の光の及ぶ範囲が、思たより狭いんで、数は幾つとも分からへん。ただ、おぼろげながら、知れるんは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とがあるっちゅう事や。もちろん、中には女も男も混じっとるらしい。そうして、その死骸は皆、それが、かつて、生きとった人間やっちゅう事実さえ疑われるほど、土を捏ねて造った人形みたいに、口を開いたり手を延ばしたりして、ごろごろ床の上に転がっとった。しかも、肩とか胸とかの高うなっとる部分に、ぼんやりした火の光を受けて、低うなっとる部分の影を一層暗うしながら、永久に唖みたいに黙っとった。

老婆との遭遇

下人は、それらの死骸の腐乱した臭気に思わず、鼻を覆うた。せやけど、その手は、次の瞬間には、もう鼻を覆う事を忘れとった。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしもたからや。

下人の眼は、その時、初めてその死骸の中に蹲っとる人間を見た。檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿みたいな老婆や。その老婆は、右の手に火を灯した松の木片を持って、その死骸の一つの顔を覗きこむように眺めとった。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸やろう。

下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸をするんさえ忘れとった。旧記の記者の語を借りれば、「頭身の毛も太る」ように感じたんや。すると老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めとった死骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱をとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜き始めた。髪は手に従って抜けるらしい。

その髪の毛が、一本ずつ抜けるんに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えていった。そうして、それと同時に、この老婆に対する激しい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対するっちゅうては、語弊があるかも知れへん。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増してきたんや。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えとった、餓え死にをするか盗人になるかっちゅう問題を、改めて持ち出したら、恐らく下人は、何の未練ものう、餓え死にを選んだ事やろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片みたいに、勢いよう燃え上がり出しとったんや。

下人には、もちろん、何で老婆が死人の髪の毛を抜くか分からんかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてええか知らんかった。せやけど下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くっちゅう事が、それだけで既に許すべからざる悪やった。もちろん、下人は、さっきまで自分が、盗人になる気でおった事なんぞは、とうに忘れとったんや。

対峙

そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上がった。そうして聖柄の太刀に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩み寄った。老婆が驚いたんは言うまでもあらへん。

老婆は、一目下人を見ると、まるで弩にでも弾かれたように、飛び上がった。

「おのれ、どこへ行くんや。」

下人は、老婆が死骸につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞いで、こう罵った。老婆は、それでも下人を突きのけて行こうとする。下人はまた、それを行かすまいとして、押し戻す。二人は死骸の中で、しばらく、無言のまま、つかみ合った。せやけど勝敗は、初めから分かっとる。下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへねじ倒した。丁度、鶏の脚みたいな、骨と皮ばかりの腕や。

「何しとったんや。言わんかい。言わんと、これやぞ。」

下人は、老婆を突き放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の前へ突きつけた。けれども、老婆は黙っとる。両手をわなわな震わせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球が瞼の外へ出そうになるほど、見開いて、唖みたいに執拗に黙っとる。これを見ると、下人は初めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されとるっちゅう事を意識した。そうしてこの意識は、今まで激しう燃えとった憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしもた。後に残ったんは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりや。そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し声を柔らげてこう言うた。

「わいは検非違使の庁の役人なんぞやあらへん。今し方この門の下を通りかかった旅の者や。やからお前に縄をかけて、どないしようっちゅうような事はあらへん。ただ、今時分この門の上で、何しとったんか、それをわいに話しさえすればええんや。」

老婆の告白

すると、老婆は、見開いとった眼を、一層大きゅうして、じっとその下人の顔を見守った。瞼の赤うなった、肉食鳥みたいな、鋭い眼で見たんや。それから、皺で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んどるように動かした。細い喉で、尖った喉仏の動いとるんが見える。その時、その喉から、鴉の啼くような声が、喘ぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。

「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘にしようと思うたんじゃ。」

下人は、老婆の答えが存外、平凡なんに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一緒に、心の中へ入って来た。すると、その気色が、先方へも通じたんやろう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったまんま、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を言うた。

「なるほどな、死人の髪の毛を抜くっちゅう事は、何ぼう悪い事かも知れへん。じゃが、ここにおる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもええ人間ばかりやぞ。現在、わしが今、髪を抜いた女なんぞはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したんを、干魚やっちゅうて、太刀帯の陣へ売りに行っとったわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに行っとった事やろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がええっちゅうて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買うとったそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うとらん。せなんだら、餓え死にをするんじゃて、仕方のうした事やろ。されば、今また、わしのしとった事も悪い事とは思わんぞ。これとてもやはりせなんだら、餓え死にをするんじゃて、仕方のうする事じゃわいの。じゃて、その仕方ない事を、よう知っとったこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるやろ。」

老婆は、大体こんな意味の事を言うた。

下人の決断

下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手で押さえながら、冷然として、この話を聞いとった。もちろん、右の手では、赤う頬に膿を持ったでっかい面皰を気にしながら、聞いとるんや。せやけど、これを聞いとる中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けとった勇気や。そうして、またさっきこの門の上へ上がって、この老婆を捕らえた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気や。下人は、餓え死にをするか盗人になるかに、迷わんかったばかりやあらへん。その時のこの男の心持ちから言えば、餓え死になんぞっちゅう事は、ほとんど、考える事さえ出来んほど、意識の外に追い出されとった。

「きっと、そうか。」

老婆の話が終わると、下人は嘲るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰から離して、老婆の襟上をつかみながら、噛みつくようにこう言うた。

「せやったら、わいが引剥ぎをしようと恨むまいな。わいもそないせなんだら、餓え死にをする体なんや。」

下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅かに五歩を数えるばかりや。下人は、剥ぎとった檜皮色の着物を脇に抱えて、またたく間に急な梯子を夜の底へ駆け下りた。

しばらく、死んだように倒れとった老婆が、死骸の中から、その裸の体を起こしたんは、それから間もなくの事や。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えとる火の光を頼りに、梯子の口まで、這っていった。そうして、そこから、短い白髪を逆さまにして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりや。

下人の行方は、誰も知らん。

※この作品は、青空文庫（https://www.aozora.gr.jp/）で公開されている以下の作品を利用して、AIで創作しています。