青空短編小説

幸せを紡ぐ者〜不完全な世界の物語屋さん〜

登録日時:2025-10-03 20:01:53 更新日時:2025-10-03 20:02:49

第一章


「これは……すごい発見だ!」


朝七時、トイレの個室で、僕は感動に震えていた。


手に持ったトイレットペーパーを凝視する。二重になった点線のミシン目が、わずかに、ほんのわずかにズレている。上の線と下の線が、まるで互いを求めるように、けれど決して重なり合えないように、微妙な距離を保っているのだ。


「これは……そうか、そういうことか」


僕、日向陽(ひゅうが・ひなた)は、二十四歳。都内の小さな出版社で校閲の仕事をしている。


そして、世界中のあらゆる「不完全さ」に物語を見出してしまう、少し変わった人間だ。


「君は……君は急いで旅立とうとする恋人を、最後にもう一度だけ引き留めようとしたんだね」


僕はトイレットペーパーに語りかける。


「規則正しく並ぶはずだった点線たち。でも、君だけは違った。愛する人がホームに向かって走り出すのを見て、じっとしていられなかった。『待って!』って叫びながら、規則という名の檻を飛び越えようとした。だから……だからズレてしまったんだ。勇敢な点線よ、君の愛は報われたかい?」


「陽、まだトイレ? 朝ごはんできてるわよ」


母の声が扉の向こうから聞こえた。


「あ、ごめん! 今出る!」


慌ててトイレを出ると、リビングでは母と妹の美月が朝食の準備をしていた。


「お兄ちゃん、また何か見つけたの?」


美月が呆れたような、でもどこか楽しそうな顔で聞いてくる。


「うん! トイレットペーパーのミシン目がね……」


僕は興奮気味に、点線の恋物語を語り始めた。


「……で、その勇敢な点線は、最後の最後で恋人の手を掴むことができたんだ。だからこそ、あのズレは生まれたんだよ。あれは愛の証なんだ!」


「はいはい、陽の物語タイムね」


母は笑いながら味噌汁をよそった。


「でもね、そういう話を聞くと、トイレットペーパーのズレにもイライラしなくなるから不思議よね」


「私も! 最初は『お兄ちゃん変だな』って思ってたけど、今じゃお兄ちゃんの物語を聞くのが楽しみになってる」


美月が笑顔で言う。


そう、僕の物語は、周りの人を少しだけ笑顔にする。それが僕の、ささやかな誇りだった。


第二章


会社に着くと、デスクの上に赤ペンで修正だらけの原稿が置かれていた。


校閲という仕事は、原稿の誤字脱字や事実関係の誤りを見つける、地味だけど大切な仕事だ。僕はこの仕事が好きだった。なぜなら、文章の「不完全さ」を見つけ、それを正すことで、より良い物語が生まれるからだ。


「日向君、おはよう」


隣の席の先輩、田中さんが声をかけてくれた。


「おはようございます」


「今日の原稿、ちょっと厄介でね。著者の先生が独特の表現を多用するタイプで、誤字なのか意図的なのか判断に迷うところがあって」


「見てみますね」


原稿を読み始めると、確かに独特だった。『哀しい』を『愛しい』と書き間違えているような箇所がいくつもある。


でも、僕にはそれが間違いには見えなかった。


「田中さん、これ……もしかして」


「うん?」


「この著者の先生は、きっと『哀しさの中にも愛しさを見出す』という哲学を持っているんじゃないでしょうか。だから無意識に、哀しいという字に愛しいという字が混ざってしまう。それは誤字というより、先生の心の叫びなのかもしれません」


田中さんは一瞬きょとんとしたあと、くすっと笑った。


「日向君らしい解釈ね。でもそれ、もしかしたら正解かも。著者の先生に確認してみる価値はあるわ」


そう言って、田中さんは著者に問い合わせのメールを書き始めた。


昼休み、僕はいつものスーパーに向かった。


社員食堂もあるけれど、僕はこのスーパーの片隅にある「見切り品コーナー」が好きだった。


今日も、傷んだ野菜たちが割引シールを貼られて並んでいる。


「よし、今日は君たちだね」


僕はキャベツときゅうりを手に取った。


キャベツの外側の葉には、茶色いシミがいくつもある。きゅうりは不自然なほど曲がっている。


レジに並ぶと、前にいたおばあさんが僕の籠を見て言った。


「あら、若いのに偉いわねぇ。見切り品を買うなんて」


「いえ、これは見切り品じゃないんですよ」


僕は笑顔で答えた。


「このキャベツの茶色いシミは、厳しい霜から家族を守り抜いたベテラン戦士の勲章なんです。きっと寒い冬の夜、他の野菜たちを身を挺して守ったんでしょう。だから僕は、この勇敢な戦士に敬意を払って、彼を家に連れて帰るんです」


おばあさんは目を丸くした。


「まあ……そんな風に考えたことなかったわ」


「このきゅうりもそうです。この曲がり方を見てください。これは、夢を追って遠くへ旅に出たけれど、故郷の味が忘れられなくて、必死に元の道を戻ろうとしている旅人の背中なんです。だから僕は、この健気な旅人を見捨てるわけにはいかないんです」


おばあさんは、最初は戸惑っていたようだったが、次第に表情が柔らかくなっていった。


「あなた、面白い人ねぇ。そんな風に考えると、野菜を買うのも楽しくなるわね」


そう言って、おばあさんも見切り品コーナーに戻っていった。


レジの店員さんも笑顔になっている。


「日向さん、今日も素敵な物語をありがとうございます」


ここの店員さんたちは、もう僕のことを覚えてくれていた。


第三章


夕方、会社の給湯室でコーヒーを淹れていると、営業部の佐藤さんがやってきた。


彼女はいつもきびきびと仕事をこなす、頼れる先輩だ。でも今日は、どこか疲れた表情をしている。


「日向君、お疲れ様」


「お疲れ様です。佐藤さん、今日は大変そうですね」


「まあね。大口の取引先に怒られちゃって。私のミスで納品が遅れちゃったの」


佐藤さんは自嘲気味に笑った。


「自分が情けないわ。いつもはこんなミスしないのに」


僕は少し考えてから、言った。


「佐藤さん、その納品の遅れは……もしかして、本当は『待つことの大切さ』を教えてくれたんじゃないでしょうか」


「え?」


「僕たちは、いつも急いでいます。早く、早くって。でも、本当に大切なものは、急いで手に入れるものじゃない。待つ時間があるからこそ、その価値が分かる。佐藤さんの『ミス』は、取引先の人に『待つこと』を思い出させてくれたんですよ。そして、次に商品が届いたとき、その人はきっと、いつもより深く感謝するはずです」


佐藤さんは、呆れたような、でもどこか救われたような表情で僕を見た。


「日向君って、本当に変わってるわよね」


「よく言われます」


「でも……ありがとう。少し楽になったわ」


佐藤さんは笑顔でコーヒーを飲み干すと、また仕事に戻っていった。


その背中は、さっきよりも少しだけ軽やかに見えた。


帰り道、駅のホームで電車を待っていると、隣に立っていた女性がため息をついた。


見ると、彼女のストッキングが伝線している。


「最悪……今朝買ったばかりなのに」


女性はもう一度ため息をついた。


僕は思わず声をかけていた。


「あの、すみません」


女性は警戒した表情で僕を見た。


「その伝線は……もしかしたら、あなたに何か大切なことを伝えようとしているのかもしれません」


「は?」


「ストッキングの繊維たちは、普段はきちんと並んで、あなたの足を守っています。でも、あの一本の繊維だけは違った。『このまま黙っていたら、彼女は気づかないかもしれない』って。それで思い切って列を飛び出したんです」


「何に……気づかないって?」


「それは分かりません。でも、あなたが最近、忘れかけている何か大切なことがあるはずです。その繊維は、あなたに『立ち止まって考えて』って伝えたかったんじゃないでしょうか」


女性は困惑した表情のまま、しばらく黙っていた。


でも、やがてふっと笑った。


「変な人ね。でも……そうかもしれない。最近、忙しくて、大切なこと忘れてたかも」


彼女はそう言うと、スマホを取り出して、誰かにメッセージを送り始めた。


僕は何も聞かなかったけれど、きっと大切な人へのメッセージだったんだろう。


電車に乗って、窓の外の景色を眺めながら、僕は思った。


世界は物語で溢れている。


誰も気づかない、小さな不完全さの中に、無数の物語が隠れている。


僕はそれを見つけて、人々に伝えることができる。


それが僕の才能だと、僕は信じていた。


第四章


家に帰ると、美月が深刻な顔でリビングにいた。


「お兄ちゃん、ちょっと聞いて」


「どうしたの?」


「明日、学校でプレゼンがあるんだけど……私、人前で話すの苦手で。きっと失敗する」


美月は高校二年生。真面目で優しい性格だけど、人前に出ると緊張してしまうタイプだ。


「失敗するって決めつけなくても」


「だって、この前も声が震えちゃって、みんなに笑われたもん」


美月は俯いた。


僕は少し考えてから、彼女の隣に座った。


「美月、君の震える声はね……」


「また物語?」


「うん。君の声が震えるのは、君の心臓が、『この話を絶対に届けたい』って、必死に鼓動を強めているからなんだ。心臓は君の味方だよ。『美月、頑張れ! 君の言葉は価値がある!』って、全力で応援してくれているんだ。だから声が震える。それは弱さじゃなくて、君の情熱の証なんだよ」


美月は顔を上げた。


「本当に……そう思う?」


「うん。それに、みんなが笑ったのは、君をバカにしたからじゃないよ。きっと、一生懸命な君を見て、微笑ましく思ったんだ。応援の笑顔だったんだよ」


美月は目に涙を浮かべながら、笑った。


「お兄ちゃんって、本当に不思議。いつもそうやって、私を救ってくれる」


「そんな大したことじゃないよ」


「ううん、大したことだよ。お兄ちゃんの物語は、本当に人を元気にするから」


翌日、美月からメッセージが来た。


『プレゼン、成功したよ! 声は震えたけど、それは心臓が応援してくれてるからだって思ったら、怖くなくなった。ありがとう、お兄ちゃん』


僕は思わず笑顔になった。


やっぱり、物語には力がある。


僕の物語は、人を幸せにすることができる。


そう信じていた。


第五章


週末、僕は一人で近所の公園を散歩していた。


ベンチに座って、持ってきたノートを開く。


このノートには、僕が見つけた「世界の物語」が書き留められている。


トイレットペーパーの点線の物語。


傷んだ野菜たちの物語。


伝線したストッキングの物語。


ページをめくっていくと、そこには無数の物語があった。


でも、最後のページは真っ白だった。


僕は真っ白なページを見つめた。


実は、僕には一つだけ、物語を見つけられないものがある。


それは、僕自身の人生だ。


僕には、大きな欠点がある。


それは……僕が、誰かを深く愛することができないということだ。


家族は愛している。妹も、母も、亡くなった父も。


でも、それ以外の人を、本当の意味で愛したことがない。


恋人を作ろうとしたこともある。


でも、いつも途中で気持ちが冷めてしまう。相手のちょっとした欠点が気になって、関係が続かない。


「僕は、物を愛することはできても、人を愛することはできないのかもしれない」


そう思うと、胸が苦しくなる。


僕は他人の欠点には物語を見出せるのに、どうして恋愛対象の欠点には物語を見出せないんだろう。


それどころか、相手の欠点が目についてしまう。


矛盾している。


僕は偽善者なのかもしれない。


物語を紡ぐことで、自分の欠点から目を逸らしているだけなのかもしれない。


「日向さん?」


突然、声をかけられて顔を上げると、そこには見覚えのある顔があった。


「あ……佐藤さん」


会社の営業部の佐藤さんだった。


「こんなところで会うなんて。散歩ですか?」


「はい。佐藤さんも?」


「ええ。休日はここでジョギングしてるんです」


佐藤さんは僕の隣に座った。


「日向君、何か悩んでる?」


「え?」


「だって、いつもは『このベンチの木目には物語がある』とか言い出しそうなのに、今日は黙ってるから」


佐藤さんは笑いながら言った。


僕は少し迷ったけれど、正直に話すことにした。


「実は……僕、自分自身の物語だけは見つけられないんです」


「自分自身の?」


「僕は他人の欠点には物語を見出せるのに、自分の欠点には物語を見つけられない。それに……恋愛対象の欠点にも物語を見つけられない。矛盾してますよね」


佐藤さんは少し考えてから、言った。


「それは矛盾じゃないと思うわ」


「え?」


「日向君は、優しすぎるのよ。他人の欠点には優しくできるけど、自分や、自分に近い人の欠点には厳しくなっちゃう。それは、責任感が強い証拠よ」


「でも……」


「それに、日向君はまだ気づいてないかもしれないけど、あなたの物語の才能は、本当に人を救ってる。私も、この前日向君に励まされて、すごく楽になったもの」


佐藤さんはそう言って立ち上がった。


「焦らなくていいのよ。いつか、自分自身の物語も見つかるわ。それまでは、今まで通り、世界の物語を紡いでいけばいい」


そう言って、佐藤さんは走り去っていった。


僕は真っ白なノートのページを見つめた。


いつか、ここに自分の物語を書けるだろうか。


第六章


翌週、会社で大きな出来事があった。


田中さんが担当していた大型プロジェクトで、僕がチェックした原稿に重大な誤りが見つかったのだ。


歴史上の出来事の年号を間違えたまま、印刷に回してしまった。


幸い、印刷前に気づいたため、大事には至らなかったが、僕の責任は重い。


「日向君、ちょっと」


部長に呼ばれて、会議室に入った。


「今回のミスについて、どう思っている?」


部長の声は冷ややかだった。


「申し訳ありません。完全に私の確認不足です」


「君は普段から、妙な物語ばかり考えているから、こういうミスをするんだ。もっと真面目に仕事に取り組みなさい」


その言葉が、胸に刺さった。


僕は何も言い返せなかった。


会議室を出ると、田中さんが待っていてくれた。


「日向君、大丈夫?」


「すみません、田中さんにも迷惑をかけて……」


「気にしないで。誰だってミスはするわ」


でも、僕は自分が許せなかった。


部長の言葉が頭の中でリピートされる。


『妙な物語ばかり考えているから、こういうミスをするんだ』


もしかして、本当にそうなのかもしれない。


僕は現実から目を逸らすために、物語を紡いでいるだけなのかもしれない。


その日の帰り道、僕はいつものスーパーに寄らなかった。


見切り品の野菜たちを見ても、物語が浮かんでこなかった。


家に帰ると、美月が心配そうに声をかけてくれた。


「お兄ちゃん、元気ないね。何かあった?」


「ううん、何でもない」


「嘘。お兄ちゃん、いつもなら『今日はこんな物語を見つけたよ』って話してくれるのに」


美月は僕の隣に座った。


「お兄ちゃんの物語、私は大好きだよ。だから、元気出して」


「ありがとう、美月」


でも、僕の心は晴れなかった。


第七章


数日後、僕は再びあの公園のベンチにいた。


ノートを開いて、真っ白なページを見つめる。


「僕の物語は……何だろう」


そのとき、隣に誰かが座った。


顔を上げると、見知らぬ老人だった。


「こんにちは」


老人は穏やかに微笑んだ。


「こんにちは」


「君は、何か探しているのかね?」


「え?」


「その真っ白なページを、ずっと見つめているから」


老人はノートを指差した。


僕は少し迷ったけれど、話すことにした。


「僕は……自分の物語を探しているんです」


「自分の物語?」


「僕には、世界の不完全さに物語を見出す才能があります。でも、自分自身の物語だけは見つけられない。自分の欠点に、物語を見出せないんです」


老人はしばらく黙っていたが、やがて言った。


「それは当然だよ」


「え?」


「自分の物語は、自分では書けない。他人が書くものだから」


老人は空を見上げた。


「君は他人の欠点に物語を見出してきた。その物語によって、多くの人が救われてきた。でも、君はそれに気づいていない」


「それは……」


「君の物語は、君が紡いだ物語の中にあるんだよ。君が救った人々の笑顔、君が変えた人々の心。それこそが、君の物語なんだ」


老人はそう言って立ち上がった。


「君は自分の欠点を嘆いているが、その欠点こそが君の物語を作っているのかもしれない。人を深く愛せないという欠点が、逆に多くの人を平等に愛することを可能にしているのかもしれない」


老人は去り際に、もう一度振り返った。


「物語は、書かれた瞬間に完成するんじゃない。読まれた瞬間に完成するんだ。君の物語は、まだ完成していない。これから、君が出会う人々によって、少しずつ完成していくんだよ」


老人は歩き去った。


僕は呆然としたまま、ノートの真っ白なページを見つめた。


そして、初めて、自分自身について書き始めた。


『僕の名前は日向陽。僕は人を深く愛することができない。でも、だからこそ、僕は世界中の小さな欠点を愛することができる。僕の物語は、まだ完成していない。でも、それでいいのかもしれない。不完全だからこそ、美しい物語になるのだから』


第八章


翌日、会社に行くと、田中さんが嬉しそうに駆け寄ってきた。


「日向君! 例の著者の先生から返事が来たわ!」


「例の……?」


「ほら、『哀しい』と『愛しい』を間違えているんじゃないかって、日向君が言ってた原稿よ」


田中さんはメールを見せてくれた。


そこには、著者からのメッセージがあった。


『田中様、そして校閲の方へ。まさにその通りです。私は哀しさの中にも愛しさを見出すという哲学を持っております。それを見抜いてくださり、感動しました。ぜひ、その校閲の方にお会いしたいです』


「日向君、すごいじゃない! 著者の先生が会いたいって!」


田中さんは興奮気味だった。


「そんな……僕はただ、感じたことを言っただけで」


「それが才能なのよ。日向君は、人の心の奥底にある物語を読み取ることができる」


その日の午後、僕は著者の先生と会うことになった。


先生は六十代くらいの、優しそうな男性だった。


「日向さん、初めまして。あなたの解釈には、本当に驚きました」


「いえ、僕は……」


「私は長年、誰にも理解されない孤独の中で書いてきました。でも、あなたは私の心を読み取ってくれた。それがどれほど嬉しかったか」


先生は目に涙を浮かべていた。


「物語を紡ぐということは、孤独な作業です。でも、その物語を理解してくれる人がいるだけで、その孤独は報われる。あなたは、そういう才能を持っている」


僕は、初めて自分の才能を認められた気がした。


「先生……僕には、欠点があります」


「欠点?」


「僕は、人を深く愛することができないんです。だから、恋愛もうまくいかない」


先生は少し考えてから、言った。


「日向さん、あなたは間違っていますよ」


「え?」


「あなたは人を愛していますよ。ただ、その愛の形が、一般的な恋愛とは違うだけです」


「愛の形……?」


「あなたは、世界中の小さな欠点を愛している。トイレットペーパーの点線を、傷んだ野菜を、伝線したストッキングを。それは、この世界への深い愛です。そして、その愛は人々に伝わって、人々の心を温めている」


先生は微笑んだ。


「それは、恋愛とは違う形の愛かもしれない。でも、それは間違いなく、尊い愛なんです」


第九章


その日の帰り道、僕はいつものスーパーに寄った。


見切り品コーナーには、今日も傷んだ野菜たちが並んでいる。


「君たちは、今日もここで待っていたんだね」


僕は優しく野菜を手に取った。


「大丈夫。僕が君たちの物語を、ちゃんと伝えるから」


レジに並ぶと、いつもの店員さんが笑顔で迎えてくれた。


「日向さん、最近元気なさそうでしたけど、今日は大丈夫そうですね」


「ええ、少し……自分のことが分かった気がします」


「そうですか。日向さんの物語、私たちいつも楽しみにしてるんですよ」


店員さんはそう言って、他の店員さんたちも集まってきた。


「日向さん、今日はどんな物語があるんですか?」


「教えてください!」


僕は笑顔で、今日見つけた野菜の物語を語り始めた。


彼らの笑顔を見ていると、先生の言葉が蘇る。


『あなたは人を愛していますよ』


そうか、僕は愛していたんだ。


恋愛とは違う形で、世界を、人々を、愛していたんだ。


家に帰ると、美月が嬉しそうに駆け寄ってきた。


「お兄ちゃん! 聞いて聞いて! 今日ね、クラスの友達が悩んでたから、お兄ちゃんの真似して物語を話してあげたの!」


「え? どんな?」


「友達がね、お弁当のご飯粒を残しちゃって落ち込んでたの。それで私、『そのご飯粒はね、あなたのお腹がいっぱいになったことを喜んで、自分は残ることを選んだんだよ。だって、無理して食べて苦しくなるより、満足して笑顔でいてほしいから』って言ったの!」


美月は目を輝かせている。


「そしたら友達、すごく喜んでくれて! 『美月ちゃんって、お兄ちゃんみたいに優しいね』って言われた!」


僕は、胸が温かくなるのを感じた。


「美月……ありがとう」


「え? 何が?」


「僕の物語が、美月を通じて広がっていく。それって、すごく嬉しいことなんだ」


美月は少し照れたように笑った。


「お兄ちゃんの物語は、本当に魔法みたいだよ。悲しいことも、嫌なことも、全部素敵なものに変えちゃう」


その夜、僕は再びノートを開いた。


真っ白だったページに、少しずつ文字が増えていく。


『僕の物語は、僕一人のものじゃない。僕が紡いだ物語は、人から人へと伝わっていく。そして、その物語に触れた人たちが、また新しい物語を紡いでいく。それが、僕の人生の物語なんだ』


第十章


週が明けて、会社では相変わらず忙しい日々が続いていた。


でも、以前とは何かが違った。


僕は自分の仕事に、以前よりも自信を持てるようになっていた。


「日向君、この原稿なんだけど」


田中さんが新しい原稿を持ってきた。


「これ、新人作家さんの処女作なんだけど、文章がすごく硬いの。でも、伝えたいことは伝わってくる。どう思う?」


僕は原稿を読んでみた。


確かに文章は硬い。でも、その硬さの中に、作家の真剣さが滲み出ている。


「これは……硬いんじゃなくて、緊張してるんですよ」


「緊張?」


「この作家さんは、きっと初めて自分の物語を世に出すことに、すごく緊張しているんです。だから文章が硬くなってしまう。でも、その緊張は、この物語への愛の証なんです」


田中さんは感心したように頷いた。


「なるほどね。じゃあ、この緊張を和らげつつ、愛は残すような編集をしなきゃいけないってことね」


「はい。きっと、作家さんも喜んでくれると思います」


昼休み、僕はいつものようにスーパーに向かった。


でも今日は、見切り品コーナーではなく、普通の野菜コーナーを見ていた。


「あら、日向さん、今日は見切り品じゃないんですか?」


いつもの店員さんが声をかけてくれた。


「いえ、今日は両方買おうかなと思って」


「両方?」


「見切り品の野菜たちも素敵だけど、新鮮な野菜たちにも物語がある。この真っ直ぐなきゅうりは、自分の道を信じて真っ直ぐに育った、自信に満ちた若者の姿です。曲がったきゅうりも、真っ直ぐなきゅうりも、どちらも素敵な物語を持っているんです」


店員さんは目を輝かせた。


「日向さん、本当に素敵です。私も、そういう風に世界を見られるようになりたいな」


「きっと見られますよ。ちょっとだけ、立ち止まって、じっくり観察すればいいんです」


レジを済ませて外に出ると、入り口で立ち止まっている女性がいた。


見覚えがある。以前、駅のホームで声をかけた、ストッキングが伝線していた女性だ。


「あの……」


僕は思わず声をかけた。


女性は振り返って、僕に気づいた。


「あ! あのときの……」


「覚えていてくださったんですね」


「もちろんです。あなたのおかげで、大切なことを思い出せました」


女性は嬉しそうに笑った。


「実は、疎遠になっていた母に連絡したんです。あのとき、あなたが『大切なことを忘れている』って言ってくれたから」


「そうだったんですか」


「今では、週に一度は母と電話するようになりました。本当にありがとうございました」


女性は深々と頭を下げた。


僕は、胸がいっぱいになった。


僕の物語は、本当に人を救っていたんだ。


第十一章


その週末、僕は再びあの公園を訪れた。


ベンチに座って、ノートを開く。


もう真っ白なページはなかった。


自分の物語が、少しずつ書き込まれている。


「また来たね」


振り返ると、あの老人が立っていた。


「あ……あのときの」


「物語は見つかったかね?」


老人は隣に座った。


「はい……まだ完成はしていませんが、少しずつ見えてきました」


「それは良かった」


老人は空を見上げた。


「実はね、私も昔、君と同じだったんだよ」


「え?」


「私も、人を愛することが苦手だった。だから、物を愛することにした。私は陶芸家でね、陶器を作っていた」


老人は優しく微笑んだ。


「私が作る陶器は、どれも不完全だった。歪んでいたり、色が不均一だったり。でも、その不完全さこそが、私の作品の魅力だと言ってくれる人がいた」


「それで……?」


「私は、不完全な陶器を作ることで、世界の不完全さを愛することを学んだんだ。そして気づいたんだよ。人を愛することと、物を愛することは、実は同じなんだって」


老人は僕を見た。


「君も、いつか気づくだろう。君が世界の欠点に物語を見出すことは、人を愛することと同じなんだと」


「でも、僕はまだ……恋愛とかは」


「焦る必要はない。恋愛だけが愛じゃないんだから」


老人は立ち上がった。


「君の愛の形は、君自身が見つければいい。誰かと同じである必要はないんだよ」


老人はそう言って、歩き去っていった。


僕はノートを閉じて、空を見上げた。


雲が流れている。


不規則に、でも確実に、前へ進んでいる。


僕も、そうやって進んでいけばいいんだ。


第十二章


月曜日、会社に行くと、部長に呼ばれた。


また怒られるのかと思って緊張していたが、部長の表情は以前とは違った。


「日向君、この前は厳しく言いすぎたかもしれない」


「いえ、僕のミスでしたから」


「そうじゃない。君の『物語を見出す才能』を否定するようなことを言ってしまった」


部長は珍しく、申し訳なさそうな表情をしていた。


「実は、あの著者の先生から直接連絡があってね。君のことをすごく褒めていた。『日向さんのような校閲者は貴重だ』って」


「そんな……」


「それで気づいたんだ。君の才能は、確かに変わっているかもしれない。でも、それは間違いなく、この仕事に必要な才能なんだって」


部長は初めて、僕に笑顔を見せた。


「これからも、君らしく仕事をしてほしい」


「ありがとうございます」


会議室を出ると、田中さんや佐藤さんが待っていてくれた。


「日向君! 良かったね!」


「部長、最近丸くなったわよね」


みんな笑顔だった。


「ねえ、日向君」


佐藤さんが言った。


「今度、私たちに『物語の見つけ方』を教えてくれない? 私も、日向君みたいに世界を見られるようになりたいの」


「僕も!」


「私も教えてほしいです!」


次々と声が上がった。


僕は、嬉しさと驚きで言葉が出なかった。


「僕なんかが……教えられることがあるかどうか」


「あるわよ」


田中さんが力強く言った。


「日向君の才能は、みんなを幸せにする才能なんだから」


その日の夜、僕は美月に頼まれて、『物語の見つけ方』を教えることになった。


「お兄ちゃん、どうやったら物語が見つかるの?」


「うーん、難しいな。でも、コツはあるよ」


僕は少し考えてから、話し始めた。


「まず、立ち止まること。みんな、急いで生きているから、小さなものに気づかない」


「うんうん」


「次に、観察すること。ただ見るんじゃなくて、じっくり観察する」


「それで?」


「そして、想像すること。これはどうしてこうなったんだろう? この欠点は何を伝えようとしているんだろう? って」


美月は真剣に聞いていた。


「最後に、愛すること。物語は、愛がなければ生まれない。その対象を、心から愛すること」


「愛すること……」


美月は少し考えてから、笑顔になった。


「分かった! つまり、世界を愛すればいいんだね!」


「そう。簡単に言えば、そういうことだね」


第十三章


それから数週間が経った。


僕は会社で『物語ワークショップ』というものを始めることになった。


月に一度、希望者を集めて、日常の中から物語を見つける練習をするのだ。


最初は五人だけだったのが、今では十五人にまで増えた。


「今日は、このシャーペンに物語を見つけてみましょう」


僕は一本のシャーペンを取り出した。


少し傷があり、クリップの部分が曲がっている。


「これ、私の!」


若手社員の一人が声を上げた。


「よく落とすから、傷だらけなんです。恥ずかしい……」


「恥ずかしいことじゃないですよ」


僕は笑顔で言った。


「この傷は、あなたがこのシャーペンをどれだけ使ってきたかの証です。そして、このクリップの曲がりは……」


僕はシャーペンを観察した。


「これは、落ちそうになったあなたを、必死に支えようとした証じゃないでしょうか。このシャーペンは、あなたの相棒なんです。傷だらけでも、曲がっていても、あなたのために頑張ってきた」


若手社員は目を潤ませた。


「そう考えると……このシャーペン、すごく愛おしく思えてきます」


「それが物語の力なんです」


ワークショップの後、参加者たちが口々に感想を言ってくれた。


「日向さんのおかげで、世界が違って見えるようになりました」


「私も、家族の欠点にイライラしなくなりました」


「ありがとうございます!」


僕は、心から嬉しかった。


僕の物語は、こうやって広がっていく。


第十四章


ある日の夕方、僕はいつものスーパーで、見慣れない若い女性を見かけた。


彼女は見切り品コーナーの前で立ち止まり、傷んだ野菜を手に取っては、また戻す、ということを繰り返していた。


「あの……」


僕は思わず声をかけていた。


「はい?」


女性は驚いたように振り返った。


「その野菜、僕にも見せてもらえますか?」


「え? これ……?」


彼女が持っていたのは、先端が少し傷んだ大根だった。


「この大根はね……」


僕は大根を受け取って、観察した。


「きっと、土の中で必死に栄養を吸い上げてきたんです。先端が傷んでいるのは、それだけ深く、深く根を張ろうとしたから。他の部分に栄養を届けるために、自分の先端を犠牲にしたんです」


女性は驚いたような顔で僕を見た。


「それって……なんだか、お母さんみたい」


「え?」


「私の母、私や弟のために、いつも自分のことは後回しにして……だから体を壊しちゃって」


女性の目に涙が浮かんだ。


「私、そんな母が嫌だったんです。なんで自分を大切にしないんだろうって。でも……」


彼女は大根を優しく抱きしめた。


「この大根を見たら、母の気持ちが少し分かった気がします。家族を守るために、自分を犠牲にするって、そういうことなんですね」


僕は静かに頷いた。


「今から、お母さんに会いに行きます」


女性はそう言って、大根を大切そうに籠に入れた。


「ありがとうございました。あなたのおかげで、大切なことに気づけました」


彼女は笑顔で去っていった。


いつもの店員さんが近づいてきた。


「日向さん、また誰かを救いましたね」


「いえ、僕は何も……」


「そんなことないですよ。日向さんの物語は、本当に人の心を動かします」


店員さんは優しく微笑んだ。


「実は、私も日向さんに救われた一人なんです」


「え?」


「以前、私、この仕事が嫌で辞めようと思ってたんです。でも、日向さんが毎日のように来て、見切り品の野菜に物語を見つけてくれる。それを見ているうちに、思ったんです。私のこの仕事にも、きっと物語があるんだって」


店員さんの目が潤んでいた。


「私の仕事は、傷んだ野菜も、新鮮な野菜も、全部大切に扱うこと。それぞれに物語があるって、日向さんが教えてくれたから」


僕は、胸がいっぱいになった。


僕の物語は、知らないうちに、こんなにも広がっていたんだ。


第十五章


その夜、家に帰ると、母が何やら真剣な顔でスマホを見ていた。


「お母さん、どうしたの?」


「陽、見てこれ」


母がスマホの画面を見せてくれた。


そこには、SNSの投稿があった。


『今日、スーパーで不思議な人に会った。傷んだ大根に物語を見出してくれて、それがきっかけで母と和解できた。世界には、こんなに優しい人がいるんだ』


「これ、陽のことじゃない?」


「え……」


僕は投稿を読んだ。確かに、今日の出来事だった。


コメント欄には、たくさんの反応があった。


『素敵な話ですね』
『私もそういう風に世界を見たい』
『その人に会ってみたい』


母は嬉しそうに言った。


「陽の優しさが、こうやって広がっていくのね」


「僕は……ただ、思ったことを言っただけだよ」


「それが才能なのよ」


美月も興奮気味に駆け寄ってきた。


「お兄ちゃん、すごい! もうシェアが千回超えてる!」


「そんなに……」


僕は驚いた。


自分の物語が、こんなにも多くの人に届いているなんて。


その夜、僕はノートを開いた。


そして、自分の物語の続きを書き始めた。


『僕は、人を深く愛することができないと思っていた。でも、違った。僕は人を愛していた。ただ、その愛の形が違っただけだ。僕の愛は、世界中に散らばっている。傷んだ野菜に、伝線したストッキングに、ズレた点線に。そして、それらの物語に触れた人々の心に。僕の物語は、もう僕だけのものじゃない。それは、世界中の人々と共有される物語になった』


エピローグ


それから半年が経った。


僕は相変わらず、出版社で校閲の仕事を続けている。


でも、以前とは何もかもが違っていた。


『物語ワークショップ』は大盛況で、今では他の部署からも参加者が集まるようになった。


「日向先生、今日は何を題材にしますか?」


みんなが期待の眼差しで僕を見る。


「先生」なんて呼ばれるのは照れくさいけれど、もう慣れた。


「今日は、この会社のロゴに物語を見つけてみましょう」


僕は会社のロゴを指差した。


「このロゴ、よく見ると少し歪んでいるんです。完璧な円じゃない」


「本当だ……」


「でも、だからこそ温かみがある。完璧すぎる円は、冷たく見える。この歪みは、人間が作った証。愛情を込めて作られた証なんです」


参加者たちは、感心したように頷いた。


ワークショップの後、佐藤さんが声をかけてきた。


「日向君、ちょっといい?」


「はい、何でしょう」


「実は……私、日向君に恋愛相談があるの」


僕は少し驚いた。


「僕に……ですか?」


「うん。実はね、気になる人がいるんだけど、その人、すごく不器用な人でね。でも、日向君の話を聞いていたら思ったの。その不器用さも、きっと素敵な物語があるんだろうって」


佐藤さんは照れたように笑った。


「だから、勇気を出して告白してみようと思って」


「それは……素晴らしいことだと思います」


僕は心から応援した。


「佐藤さんなら、きっとうまくいきますよ」


「ありがとう、日向君。日向君のおかげで、世界が優しく見えるようになった」


その日の帰り道、僕はいつものスーパーに寄った。


見切り品コーナーには、今日も野菜たちが並んでいる。


「やあ、君たち。今日も頑張ってたんだね」


僕は優しく野菜を手に取った。


そのとき、隣に誰かが立った。


顔を上げると、二十代半ばくらいの女性だった。


「あの……もしかして、日向さん、ですか?」


「え? はい、そうですけど」


「やっぱり! SNSで話題の、物語を見つける人!」


女性は興奮気味だった。


「私、日向さんの話を聞いて、すごく救われたんです」


「そうだったんですか」


「私、ずっと自分の欠点ばかり気にして、自分が嫌いだったんです。でも、日向さんの『欠点にも物語がある』って言葉を聞いて、自分の欠点も愛せるようになりました」


女性は涙ぐんでいた。


「ありがとうございます」


「いえ、僕は……」


そのとき、ふと思った。


もしかしたら、これが僕の『人を愛する』ということなのかもしれない。


恋愛とは違う。


でも、確かに愛だ。


世界を愛し、人々を愛し、欠点を愛する。


それが、僕の愛の形なんだ。


「あの……」


女性が恥ずかしそうに言った。


「もしよかったら、今度お茶でも……」


僕は一瞬戸惑ったが、笑顔で答えた。


「はい、ぜひ」


それが恋愛に発展するかどうかは、まだ分からない。


でも、それでいい。


僕の物語は、まだ完成していない。


これから、どんな物語が紡がれるのか。


それは、誰にも分からない。


でも、きっと素敵な物語になるはずだ。


不完全だからこそ、美しい物語に。


僕は野菜を籠に入れて、レジに向かった。


店員さんたちが笑顔で迎えてくれる。


「日向さん、今日も素敵な一日でしたか?」


「はい、とても」


外に出ると、夕日が沈みかけていた。


オレンジ色の空が、世界を優しく照らしている。


僕は空を見上げて、微笑んだ。


世界は、物語で溢れている。


不完全な世界だからこそ、無数の物語が生まれる。


そして、僕はこれからも、その物語を見つけ続けるだろう。


誰かの欠点に、誰かの傷に、誰かの不完全さに。


それらすべてに、素敵な物語を見出して。


世界を、少しだけ優しくするために。


――不完全な世界の物語屋さん、日向陽の物語は、まだ続いていく。


<完>

※この作品はAIで創作しています。