ある日に炎上したインフルエンサーに転生した炎上屋
第一章 狩りの時間
深夜2時を回ったオフィス街のマンションで、佐倉渉は薄暗い部屋のデスクに向かっていた。青白いモニターの光が、彼の険しい表情を照らし出している。
「今日も獲物を探すとするか」
渉は冷めたコーヒーを一口飲みながら、複数のSNSアプリを次々と開いていく。彼の生き甲斐、それは人気インフルエンサーたちの小さな過ちを見つけ出し、世間に晒し上げることだった。
匿名アカウント『正義の監視者』として活動する彼は、これまでに数え切れないほどのインフルエンサーを炎上に追い込んできた。些細な発言の矛盾、写真の背景に写り込んだ不適切なもの、過去の投稿との食い違い——彼の鋭い目は、どんな小さな綻びも見逃さない。
「あ、これは使えるな」
渉の口元に薄い笑みが浮かんだ。画面には、最近急上昇中のライフスタイル系インフルエンサー「ユリ」の最新動画が表示されている。
『みなさん、おはようございます!今日は新しくオープンしたカフェをご紹介します♪』
動画の中で、ユリは明るい笑顔でカフェのドリンクを紹介していた。しかし渉の目は、動画の後半部分に釘付けになった。カフェから公園に移動したユリが、何気なく手にしていた紙コップを、一瞬の隙に植え込みの陰に捨てる場面が映っていたのだ。
「ビンゴ」
渉は即座にその部分をスクリーンショットで切り取り、画像編集ソフトで赤い矢印と文字を加えた。『環境意識の高さをアピールするインフルエンサーの正体』というタイトルと共に、証拠画像をSNSに投稿する。
さらに彼は、ユリの動画のコメント欄に移った。
『いつも環境問題について語ってるのに、自分はゴミをポイ捨てするんですね。がっかりしました』
『こういう人が若い子たちの手本になってるって、本当に問題だと思う』
『スポンサー企業も、こんな人を使って大丈夫?』
匿名の複数アカウントを使い分けて、次々と批判的なコメントを書き込んでいく。やがて他のユーザーたちも彼の投稿に反応し始め、批判の声が拡散し始めた。
「今回もうまくいった」
渉は満足感に浸りながら、スマートフォンを握りしめたままベッドに倒れ込んだ。明日の朝には、きっとユリの炎上がトレンド入りしているだろう。そんな期待を胸に、彼は深い眠りに落ちていった。
第二章 鏡の向こう側
「んっ…」
目が覚めた渉は、違和感を覚えて身体を起こした。いつものスチール製のベッドフレームではなく、白いレザーのヘッドボードが目に入る。部屋全体を見回すと、そこは見覚えのない豪華な部屋だった。
「ここ、どこだ?」
壁際には、プロ仕様の照明機材と高価そうなカメラが設置されている。撮影用のリングライトや、三脚に固定された一眼レフカメラ。まさにインフルエンサーが動画撮影に使うような本格的な機材ばかりだ。
渉は困惑しながら立ち上がり、部屋の中を歩き回った。クローゼットには、見覚えのあるピンク色のワンピースや、白いブラウスが整然と並んでいる。どれも昨夜見たユリの動画で着ていた服に似ていた。
「まさか…」
不安に駆られた渉は、洗面所に向かった。そして鏡の前に立った瞬間、彼の血の気が引いた。
鏡に映っていたのは、佐倉渉の顔ではなかった。長い黒髪、大きな瞳、整った鼻筋——昨夜自分が徹底的に叩きのめしたインフルエンサー「ユリ」の顔が、そこにあったのだ。
「嘘だろ…これ、夢だよな?」
渉は震える手で自分の頬を触った。鏡の中のユリも同じ動作をする。現実を受け入れられずに、何度も自分の顔を確かめた。
しかし、どれだけ見つめても、鏡に映るのはユリの顔だった。細い手首、華奢な体型、すべてがユリのものになっていた。
「こんなこと、あり得ない…」
パニックに陥りそうになる気持ちを抑えながら、渉はスマートフォンを探した。ベッドサイドテーブルの上で、ピンク色のケースに入ったiPhoneを発見する。
画面を開くと、ユリのSNSアカウントが表示された。フォロワー数は50万人を超えている。そして通知を見た瞬間、渉の顔は青ざめた。
数千件のコメント、リプライ、メッセージがひっきりなしに届いている。その内容は、昨夜自分が仕掛けた炎上に関するものばかりだった。
第三章 火の粉の嵐
勇気を出して外に出ようと玄関のドアに向かった渉だったが、インターホンの音に足を止めた。ピンポーン、ピンポーンと、執拗に鳴り続けている。
恐る恐るドアスコープから外を覗くと、そこには見知らぬ人々が群がっていた。スマートフォンを手にした若い女性たちが、興味深そうに建物を眺めている。
「ユリって、ここに住んでるんでしょ?」
「ポイ捨て女、出てこいよー」
心無い声が聞こえてくる。渉は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
インターホンが再び鳴った。今度は宅配業者のようだった。
「ユリ様へのお荷物です」
受け取りに出ると、段ボール箱を抱えた配達員の男性が立っていた。しかし、その箱には嫌がらせとしか思えない内容物が詰まっていることが、重量と形状からなんとなく分かった。
「あの、注文した覚えがないんですが…」
「代金引換ではありませんので、こちらで確認は取れません。受け取りをお願いします」
渉は仕方なく荷物を受け取ったが、その後も次々と同様の宅配が届いた。明らかに嫌がらせ目的の送りつけだった。
スマートフォンを確認すると、状況はさらに悪化していた。昨夜の炎上は大手メディアにまで取り上げられ、ユリのSNSアカウントには批判的なコメントが殺到していた。
『環境活動家のフリして、裏では平気でポイ捨てする偽善者』
『若い女性のお手本とか言われてたけど、結局こんなもんか』
『スポンサーは契約を見直すべき』
渉が匿名で書き込んだコメントも、その中に混じっていた。自分の書いた言葉を、今度は当事者として受け取ることの辛さに、彼は初めて直面した。
電話も鳴りやまない。マネージャーらしき女性からの着信表示が何度も点滅している。渉は震える手で電話に出た。
「ユリちゃん、大丈夫?SNSが大変なことになってるけど…」
「あ、あの…」
「とりあえず今日の撮影は全部キャンセルしたから。しばらく外出は控えて、様子を見ましょう」
電話を切った後、渉は床に座り込んだ。部屋の中にいても、外からの視線と悪意に満ちた声が絶えず聞こえてくる。
第四章 炎に焼かれる者
数日が経過しても、事態は収束する気配を見せなかった。むしろ、新しい「証拠」を探す人々によって、ユリの過去の投稿まで詳細に検証されるようになっていた。
渉はユリとして部屋に引きこもり、SNSの画面を見つめ続けていた。自分が今まで匿名で行ってきた「正義の追求」が、当事者にとってどれほど残酷なものだったか、身をもって理解し始めていた。
「私は…何をしていたんだ」
画面に表示されるコメントの一つ一つが、針のように心に刺さる。特に、自分が書いた言葉を読み返すときの苦痛は言葉にできないものだった。
『こういう人が社会に影響を与えてるって、本当に怖い』
これは、渉が匿名アカウントで書き込んだものだった。その時は正義感に駆られて書いたつもりだったが、今受け取る側になってみると、その言葉がどれほど人を傷つけるものだったかが分かる。
マンションの前には、相変わらず野次馬たちが集まっていた。中には動画撮影をしている人もいて、「ポイ捨て女の住まい」として配信されていた。
渉は窓のカーテンを閉め、部屋の奥で膝を抱えて座り込んだ。
「ユリ」としての生活は、想像以上に過酷だった。外出することはおろか、窓を開けることすら怖い。常に誰かに見られている感覚、批判されている恐怖感が、彼の心を蝕んでいった。
そんな時、ドアのポストから何かが投函される音がした。恐る恐る確認しに行くと、そこには手紙が一通入っていた。
封筒には「ユリさんへ」と書かれている。渉は震える手でそれを開いた。
『ユリさん、いつも動画を楽しく見させていただいています。今回の件で多くの人があなたを批判していますが、私はあなたを信じています。完璧な人なんていません。きっとあれは間違いで、普段のユリさんはとても素敵な人だと思います。体調を崩さないよう、気をつけてください。応援しています。』
たった一通の手紙だったが、渉の心に温かいものが流れた。今まで自分は、こうした声に耳を傾けることなく、ただ批判の声だけを拡散してきた。
しかし同時に、自分が今まで炎上に追い込んできた人たちも、こうした温かいメッセージを受け取っていたのだろうということに思い至った。そして自分は、そうした声を踏みにじり、悪意だけを増幅させてきたのだ。
第五章 気づきの時
渉がユリとして過ごすようになって一週間が経った頃、インターホンが鳴った。いつものように野次馬や嫌がらせかと思ったが、モニター越しに見えたのは、見覚えのない中年の女性だった。
「すみません、ユリさんでしょうか。私、近所の公園でボランティア清掃をしている佐藤と申します」
渉は恐る恐るドアを開けた。
「あの、今回の件で、ユリさんがとても辛い思いをされているのを知って…実は、お伝えしたいことがあるんです」
佐藤さんは優しい表情で話し続けた。
「あの日、公園であなたがゴミを捨てているように見えた場面のことですが、実は私、その後あの場所を清掃したんです。でも、ゴミは落ちていませんでした」
渉は驚いて顔を上げた。
「あなたが植え込みの陰に手を伸ばしていたのは、既に落ちていた他の人のゴミを拾い上げるためだったんですね。動画では、その瞬間だけが切り取られて、まるで捨てているように見えてしまったのでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、渉の中で何かが崩れ落ちた。自分は、善意の行動を悪意に捉え、一人の人間を社会的に葬り去ろうとしていたのだ。
「そのことを、SNSでも証言させていただきました。少しでも誤解が解けるといいのですが…」
佐藤さんが帰った後、渉は一人で泣いた。今まで自分がやってきたことの罪深さを、深く理解したのだ。
エピローグ 償いの道
それから数日後、渉は再び自分の身体に戻っていた。目覚めたのは、見慣れた自分の部屋。しかし、彼の心は以前とは全く違っていた。
パソコンの前に座り、『正義の監視者』のアカウントを見つめる。このアカウントで、彼は数え切れないほどの人を傷つけてきた。
渉は震える手で、長文の投稿を作成し始めた。
『これまで多くの方を傷つける投稿をしてしまい、心からお詫び申し上げます。私は匿名の立場から一方的な批判を繰り返し、多くの方の人生に取り返しのつかない傷を負わせてしまいました。特にユリさんについては、事実を歪曲した投稿により、不当な批判に晒してしまいました。深く反省し、このアカウントでの活動を終了いたします。』
投稿を公開した後、渉は自分の本名でのアカウントも作成した。そして、一つずつ、自分が過去に炎上させた人々に向けて、個別に謝罪のメッセージを送り始めた。
すべてが許されるわけではないことも理解していた。しかし、せめて自分にできることから始めたかった。
数ヶ月後、渉はネットの向こう側にいる人々の痛みを理解する活動を始めた。炎上被害者の支援や、ネットリテラシーの啓発活動。小さな一歩だったが、それは確実に前に進む歩みでもあった。
画面の向こう側にいるのは、自分と同じ感情を持った人間だということを、渉は二度と忘れることはなかった。そして、言葉が持つ力の重さを、心に刻み続けながら生きていくことを誓った。